見つめる日々

DiaryINDEXpastwill HOME


2004年02月20日(金) 
 三週間くらい前から、繰り返し見る夢がある。最初にその夢を見た時は、夢を殴り捨てるようにして飛び起き、しばらく夜闇の中で沈思した。
 それは、私にとって加害者である人たちの夢だった。事件を引き起こした張本人である男性、そして信頼を裏切り私をとことんまで追い詰めていった上司たち、私の目の前であの事件の噂を面白げにそして興味津々の目つきで話していた人たち。思い当たる人たちの顔が、勢揃いといっても過言ではないほど、夢の中に現れた。
 でも、その人たちが私にした仕打ちが夢となって現れ出たのではない。たとえば。あぁ、あの上司は今頃どうしているのだろう、まだ公団の狭いアパートに家族と暮らし、早く仕事を辞めたいと毎日のように今も愚痴っているのだろうか。あの先輩はどうしているのだろう、独立して小さなプロダクションを構えたはいいが、内情は火の車だと聞いたことがある。その後仕事はうまくいっているのだろうか。あの先輩は、いつでも早く結婚したいと繰り返していたが、結局どうなったのだろう、幸せになれたのだろうか。そしてあの人は、借金まみれの毎日を送っていると耳にしたが、その後どうしているのだろう、幸せにやっているのだろうか。…云々。
 夢の中に、私もいた。私の後姿がぼんやりと私の目の前にあり、その私が、次々に浮かんでくる人たちの顔や姿を、今どうしているのだろう、幸せにやっているのだろうか、と、そんなふうに思って見つめている、眺めている、といったふうだった。
 目を覚まして、私はしばし、夢が信じられなかった。そういう夢を自分が見た、というそのことが、信じられなかった。どうしてこんな夢を見るのだろう? 私にとって彼らは加害者以外の何者でもないのに。どうしてその加害者たちに対して、怒りどころか、今どうしているのだろう、幸せにしているのだろうか、なんてことを、思えるのだろう、と。
 以来、数日おきに、そんな夢を見ていた。そのたび私は、たかが夢とは言えどうにもしっくりこないような、でも何処かで分かっているかのような、中途半端な心持を味わっていた。この夢は一体何なんだろう。私が心の中でこう思っているとでもいうのだろうか? そんなこと、あっていいことなんだろうか? あり得るんだろうか? あり得るわけがない。でも。でもじゃぁどうして? 考えるほど、様々な思いが交叉した。ただ、ひとっとびに答えを求めることだけはやめようと思った。何故なら、この夢は私にとって、大きすぎるものだったから。いちどきに答えが出せるわけはない、出してもいけない、少しずつ少しずつ、考えてゆこうと、そう思った。

 そして。
 ようやく納得した。あぁ私はもう、あの事件、それに絡んだ人たちのことは、ある意味どうでもいいと思っているのだな、と。
 確かに、あってはならない事件だったし、それを許すとか許さないとか、そんなことさえ思うことのできない類のものだったし、今だってそれはそれとして私の心の中に、在る。
 でも。
 あの事件そのものよりも、あの事件が起きてから今日まで生きてくる道程の中で起きた出来事の方が、ずっとずっと大きいのだ。事件そのものよりも、今日まで生きてくる、そのことの方が、ずっと大変だった。今日まで生き延びてくるそのことの方が、私にはずっと大変だった。
 だから、もういいのだ。許すとか許さないとか、そういうことじゃない。もう、いいんだ。
 そうして思った。今度は夢としてではなく、ちゃんと目を開けて、呼吸をしながら。
 あの人たちは、今頃どうしているのだろう。裁判に勝ち、自分たちに非はないと言い切った彼らは、今幸せになっているのだろうか。私が生きがいとさえ思っていた仕事を彼らは今日も続けている。その仕事に携わりながら、彼らは今、どんなことを思い、どんなことを記し、そして毎日を送っているのだろう。あの事件を経ることで、彼らにとって毎日はどんなふうに変わったのだろう。もしかしたら、これっぽっちも変わっていないのかもしれない。それどころか、裁判なんて起こして事を荒立てた私を恨んでいるかもしれない。でももういい。彼らには彼らの生き方があり、私には私の生き方が在る。私はこうやって、今もあのことを思い出すけれども、彼らは欠片さえ思い出さないかもしれないし、或いは汚点として自分の記憶に封印してしまっているかもしれない。あの事件を経たことなんて、何の実にもならず、道端にぽーんと放られているだけなのかもしれない。でも、それもきっと、ひとつの生き方なんだ。私がどうこう言っても、何も始まらない。何も、変わらない。私にできることはただ、自分が納得した生を、私が毎日毎瞬、ここでこうして紡いでゆくことだけ。
 でも、それでいいんだ。それで充分なんだ。きっと。
 死ぬ時、今思い出さなくても彼らがそれぞれに死ぬ時になって、過去にあんなことがあったと思い出すかもしれない。思い出さないかもしれない。思い出して、あぁ悪かったなと思ってくれるかもしれない。思ってくれないかもしれない。ひとかけらでも、一瞬でももし、生きている間に、あぁあんなことがあった、あんなことをしてしまった、今頃あいつはどうしているだろう、って、それを痛みとして思い出してくれたら。もうそれで充分。もちろん、そんなこと、一瞬たりとも思うことなく、彼らはみな歩いてゆくのかもしれない。でもそれはそれ。もう、そんなこと、どっちでも、いい。
 彼らは彼らの生き方を、私は私の生き方を、全うすれば、それでいいんだ。

 そう思うようになった頃、読んだのが、河野義行氏のインタビュー記事だった。普段私は雑誌の類は全くといっていいほど読まない。それがその時は、この記事を読みたいと本を手に取りページを探していた。それは多分、私が、そんなことを自分なりに考えていた頃だったからに違いない。
「ですからね……もう、どうやって幕を引くかっていう年なんですよ。最低限、妻が生きているうちは自分は生きなきゃとは思っていますが。
 完全に事件や麻原さんからは、心が離れちゃっていますよね。自分は自分の生活……妻を守り、子供を育てる。それで精いっぱいでしたよ。人を憎むということが、いかにエネルギーを使うかってことなんです。私は、そんなところにエネルギーを使えないんです」
「たとえ、彼が無罪で生き永らえたとしても、それは彼にとって本当の救いではないわけですよ。やったか、やらなかったのかは、本人がいちばんよくわかっている。死刑を免れても、いつか必ず死は訪れます。そのときになっても、彼は自分に嘘をつき続けられるでしょうか。自分に嘘をつくのは、自己否定。救いではなく、苦しみのはずです。でも、それは彼の人生で、私には関係ない。『生きていてください』というのは、あなたの人生だから、あなたが選択しなさいよということです。
 …
 被告が死刑になっていなくなったとき、私たち被害者に心穏やかな生活がくるのか? また、本当にそういう心になるのか?
 人によってはそうなるかもしれない。でも、私は、彼が生きていようと、死んでいようと関係ないんです。あれを超えるだけの大変な目に遭っているわけです。そんななかで、恨むなんて感情は超えたわけですよ。
 …
 去年、長野で『生坂ダム事件』がありましたね。20数年前に自殺だと言われていたものが、他殺だとわかった。お母さんにしてみれば、息子を殺した人です。その人に向かって、お母さんが言いましたね。『自白してくれて、ありがとう』って。わかります?
 犯人を『憎い、憎い』と思う。それよりも、もっと辛い思いがあったということです。世間的な言い方をすれば、『うちの息子を返せ』ですよ。だけど、このお母さんにとっては、それを超えるもっと辛いことが20数年続いた。とてつもない哀しみがあったと思うんです。『ありがとう』という言葉の裏返しをよく考えなければいけないってことなんです。
 私の場合でも、彼への憎しみを超える、もっと理不尽なこと、つらいことがあったということですよ」
(「麻原さん、どうか生きていてください」、昨年12月初め、麻原こと松本智津夫被告に対する思いを問うたときに被害者のひとりである河野氏がこう答えた、その言葉に対し、真意は、その言葉の奥底にあるものは、と、記者が問うて構成されたインタビュー記事より部分引用/「女性自身」3月2日号、光文社刊)

 胸の中にわだかまっていたことが、すぅっと音をひいて昇華されてゆくような気がした。もちろん、私は、河野氏のように、ここまで言語化することはできないし、少しばかり私はもう少し違うかもしれないと思ったりもする。そもそもこれは河野氏本人が記したものではない、第三者の記者、編集者によって記事は構成されている。だから、河野氏本人の意図からは、離れてしまっている内容になっているかもしれない。
 でも。私はこれを読み終えて、ふっと、肩を押された気がした。もういいじゃない、ね、行こうよ、と。ほら、目の前に道は広がっている。この野っ原すべてが君の道だよ、君が歩いてゆけばそこが道になる、歩いていっていいんだよ、と。
 自分が何を選び、そして選び取ったものをいかにして生きるのか、全うするのか。そのことなんだ。大切なのは。
 これからもきっと、いろんなことがあるんだろう。今こんなことを書いていても、大きな揺り戻しがやってきて私はまたパニックやフラッシュバックの坩堝に陥るのかもしれない。突然に怒りと憎悪の嵐に巻き込まれ、絶叫することがあるかもしれない。でも、大丈夫。そうなってもきっと大丈夫。私はやっていける。

 朝のうち空一面に暗く澱んでいた雲が少しずつ薄くなり、今は太陽の光が辺りに降り注いでいる。私は今日も、ベランダに出て薔薇の樹を見回り、わずかながら仕事をし、時間になれば娘を迎えに行き、そして眠る。
 私が営む毎日は、こうしてちゃんとここに在る。


遠藤みちる HOMEMAIL

My追加