見つめる日々

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2004年05月25日(火) 
 午前四時。開け放した窓から、闇色が薄らいでゆく空を見上げる。毎日毎日、薄らいでゆく時刻が早くなってゆく。あぁ季節は今このときも確かに移ろっているのだ、と、改めて知る。
 如雨露で薔薇たちに水をやる。樹のどれもが、如雨露から落ちる水を一滴残らず飲み干そうと口を開けて待っている。ごくりごくり、喉の鳴る音が、今にも聞えてきそうな気がする。だから私も、できるだけプランターの外に零さないよう、両腕で重たい如雨露を抱えながら水をやる。ベランダと水場とを行ったり来たり。合計十二往復。そうしている間に空はもっともっと薄らいでゆく。いや、もう薄らいでゆくという段階は越えて、朝のもやもやとした光が、街の上に広がり始めている。
 昨朝、私は一時間半ほど意識を失っていた。娘はその間何度も私を呼んだらしい。でも、私にはその間の記憶がまったくない。ママったら突然ぱたんって倒れるから、何回もママって呼んだんだよ、と、娘に教えられる。はっとして時計を見れば、もう病院の予約の時刻、つまり保育園にも行っていなければならない時刻。私は混乱する頭をそのままに抱えながら、娘を急かし、自転車を走らせる。
 病院で、朝のことを報告する。しばらく黙っていた先生が、こうおっしゃる。解離症状と極度の緊張、それからストレス。すべてが今、これでもかというほど張り詰めてるみたいね。どうしたらいいんでしょう、先生。自分一人の時に倒れるなら別に構わないんですが、娘の前ではちょっと。今までこういうことあった? いえ、多分、なかったと思います、あったとしても、ここまで長い時間、娘の前でっていうのはなかったと思います、私の記憶にないだけかもしれないので自信はありませんが…。昼間、仕事のないときとか、保育園のお迎えの時間になるまで横になるとかしたらどうかしら? それが、できないんです。怖いんです。一度横になってしまったらちゃんと起きられるかどうか。目覚し時計をかけてもだめなの? はい、そういうときって目覚し時計も何もかもふっ飛ばしてるみたいです、私。だから、昼間横になるのも、先のことを考えて怖くなってしまうんです。でも夜も眠れないのよね。はい、横になるのが怖いです。すごく抵抗感を覚えてしまって。最近、その感じが以前よりずっと強くなっているように感じます。前はまだ、娘に本を読み聞かせて、ぬいぐるみで保育園ごっこをして、そうして少しの間だけでも横になって眠ることができたんですけれど、今は、娘の隣で眠ることまでもが怖くなってきて。私が意識を失っている間に何かあったらどうしよう、とか、そう思ってしまって。そうね、そういう状態があっても全然おかしくないわ、まだ当分そういう状態が続くかもしれないけど、とにかく生き延びましょうね。はい。
 そうやって先生に話したことがよかったのだろうか。昨夜は、娘を寝かしつけながら、私もしばしの間うとうとすることができた。それがほんの一、二時間のことであっても、眠れたという効果は、私をしっかり元気にさせてくれる。
 友人から電話が来る。姉妹喧嘩をしたのだという。妹さんが、事あるごとに「お姉ちゃんは穢れてる」と繰り返し彼女に言うのだそうだ。あまりに繰り返し言われた彼女は、思わず、それまで妹さんに対して絶対口にしてはいけないと思っていた言葉を妹さんにぶつけてしまう。結果、電話はぶち切れて、今も音信が絶えてしまったという話。
 彼女は私と同じ性犯罪被害者の一人だ。だから、そのことで妹さんから穢れていると言われることは、どれほど辛いだろう。私もかつて、両親や周囲の人達から同じ言葉を何度もぶつけられたことがある。そのたび、心臓を鋭く長い刃でぐさっと一突きされたような激烈な痛みを覚えたものだった。でも、その痛みが麻痺していったのは事件からどのくらい経ってからだろう。いや、麻痺、とも少し違う。多分、ある種の開き直りだ。誰が何と言ったっていいさ、そんなこと構いやしない、私は間違ったことはしていない。だから穢れてなんかいない。自分にそう言い聞かせることを覚えた。
 実際は、自分の中でも不安なのだ。怖いのだ。やっぱり穢れてるんじゃないだろうか、とか、私にも落ち度があったんじゃなかろうか、とか。常にそういった問いは自分の中でぐるぐる回っている。けれど。
 何をもってして人を「穢れている」とみなすことができるのだろう。そもそも「穢れる」とは何であるのか。
 だから私は、今はこう思うことにしている。体は穢れているかもしれないけど、私の心はあのことで穢れてなんていない、これっぽっちも穢れちゃいない、大丈夫、と。
 だから、彼女に、私はこう考えることにしているんだよ、という話をする。電話の最後の方で、与太話をしていたら、ようやく彼女の笑い声が聞えてきた。私は一安心する。よかった、とりあえずちょこっとでも彼女が笑ってくれた。そのことが、私をとても、やさしい気持ちにさせてくれる。
 窓の外、雀の声に混じって一声、鶯の声が聞えた。いや、今頃鶯が鳴くはずがない。私は思わず窓の外をじっと見る。もちろん姿を目に捉えられるわけはないのだが、じっと耳を澄ます。すると、再び一声、ホーホケキョ、そしてまた一声、ホケキョ、という声が響いてきた。これは錯覚じゃぁないんだろうか、本当に今この街の何処かに鶯がいるのだろうか。信じられない気持ちでいっぱいだけれど、もし本当にいるのなら…。この街もまだまだ捨てたもんじゃないな、なんて思う。そして再び鶯の声。私は、おのずから自分の口元が緩んでゆくのを感じる。そうさ、世界はまだまだ捨てたもんじゃない。
 気がつけば、街のあちこちに影が生まれている。あぁ、朝の光がはっきりと今街を照らし出しているのだ、私はそのことを、影から知らされる。四時半に小さくパチンと音を立てながら灯りが消えた街燈は、今はひっそりと、街の一部となっている。街路樹の緑はゆったりと朝の風に揺らぎ、時々通りを行き交う車の音が響く。
 さぁ、また一日が始まる。途中で意識を失おうと何だろうと、それは私の一日であることに変わりはない。一生でたった一度の今日という日。しっかり味わって、味わいつくして、そうしてまた明日を迎えたい。


遠藤みちる HOMEMAIL

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