2004年05月24日(月) |
朝一番に窓を開ける。見やると、どんよりとした鼠色の雲が空一面を覆っていた。溜まった洗濯物を干してはみるけれど、どうにもしっくりこない。 風はずいぶんと弱まり、通りの樹々の葉がちらちらりと揺れるばかり。排気ガスにいくらまみれても、そうやって揺れる緑葉の、心の内を、ふと覗いてみたくなる。 日曜日。娘を喜ばせようととある場所に出掛ける。私たち二人にとって初めての場所。一体どんな反応が返ってくるのだろう。どきどきしながら彼女と電車に乗り目的地へ。 「ねぇママここ何処なの?」「どっち行くの?」「何があるの?」。彼女の問いかけはとめどなく続く。私はにーっと笑って、「秘密」と答え続ける。 正直言うと、もし私一人ならば行かなかっただろう場所へ、私は娘を連れていった。私一人だったならば、周囲を行き交う夥しい数の他者たちに琴線をすり減らし、開放されるどころか逆にストレスをたんまり貯めて帰ってくるのがおちだったろう。けれど。 彼女は、私の予想をはるかに越えて、喜び、はしゃいだ。辺りに響く娘の笑い声。あっちへ行ったと思えばこっちへ行き、彼女はもうとどまるところを知らないといった様子。その傍らで私はといえば。 ただ嬉しかった。こんなにも大きな声できゃぁきゃぁはしゃぐ彼女を見るのはどのくらいぶりだろう。あぁ連れてきてよかった。彼女の笑い声や笑い顔で、私の心はたっぷりと満たされていた。私の腕の夥しい傷痕に気づいて怪訝な顔をする人たちのことも、私がふとしたときにふらりと倒れこみそうになるのを不思議そうに眺める人たちのことも、もうどうでもよかった。周囲が全員、もしもそういう目で埋め尽くされていても、私は、娘の笑顔と笑い声で、充分に満たされ、それは私の心をたとえようもなくやわらかく解してくれた。 時間ぎりぎりまで遊んで家に戻ると、彼女は、突然、甘えん坊になった。こんなに甘えん坊になったのはこれもまたどのくらいぶりだろう。私は最初ちょっと躊躇したけれど、これはとことん甘えてもらおうと、今日は彼女にたっぷりつきあうんだ、と、心に決めた。 決めたはずだったのに。
今日の彼女は本当に貪欲だった。何処までも何処までも貪欲で、私はだんだんうろたえ始めた。だんだんと私自身の限界が見え始め、私は余計に焦った。どうしよう、ここまできて彼女を突き放すなんてできない。彼女の甘えを遮断することなんてできない。一体どうしたらいいんだろう。どうやったらバランスが取れるだろう。 そう思っているうちに、私の心は限界を越えてしまった。
一生懸命こわばる頬を緩ませて、彼女に言って聞かす。もうそろそろ寝ようか。もうお片付けしようよ。ね。もうみんな寝てる時間だよ。 ありきたりの言い訳をいくら並べてみたって、今日の彼女が納得するわけはないのだ。そんなこと分かっているのに。私にはそれしかできなかった。 彼女は私にそう言い聞かされるたび、下唇を突き出してべそをかきながら布団の中に行く。けれど、しばらくするとまた起き上がって来て遊ぼうとする。それでまた私に叱られる。一方、布団から起き上がってこないときは、代わりに彼女のえーんえーんと布団の中で泣く声が聞えてくる。仕方なく迎えにゆくと、抱っこ、とせがむ。だから私は抱っこする。でも、彼女の瞼はいつまでたっても閉じようとしない。 とうとう私は言ってしまった。 「もういい加減にしなさい!」
布団の中に潜りこんですすり泣く彼女を、私はそのまま放っておこうと思うのに、結局気になって私の方から彼女を抱きしめにいく。すると彼女はまた、何処までも甘えてこようとする。自分から抱きしめにいったのに、私はもうとおの昔に限界を迎えているものだから、それ以上彼女を許容することができない。 半分泣きながら、それでもようやく彼女が眠る。時計の針は、とっくに真夜中を過ぎている。私は、とてつもなく自分の神経が張り詰めきりきりしているのを痛感しながらも、同時に、あまりに彼女が不憫で、眠った彼女の額を撫でながら、ごめんね、と言う。ごめんと言うくらいなら、彼女を突き放したりしなければいいのに。そもそも、今日はとことん彼女に付き合おう、彼女が私に望むだけ彼女を受容しようと心に決めたはずだったのに。結局私は何をしたのか。
情けなかった。どうしようもなく情けなかった、自分という存在が、とてつもなく情けなくて矮小に見えた。一体何やってるんだろう、私は。娘の寝息を聞いていたら、自然、涙がこぼれた。ちっぽけな私。ちっぽけな私という器。あなたを十二分に受け止めることさえできないなんて。
窓の外、ぼんやり眺める。今日も変わらずに、通りの向かいには街燈が佇んでいる。街路樹はその街燈の橙色めいた光を受けて、ほんのりと輪郭を浮かび上がらせている。ちらちらゆれる葉々。 あぁ、樹よ、おまえはなんて偉大なんだろう。生まれ続ける葉々を決して見捨てることなく何処までも受容してゆく。そんな器が、私は欲しい。大地深くに根を張る老木の、あのやわらかくておだやかなエネルギーと、何処までも己の宿命或いは己の置かれた世界を受容し続けるその器とが、今、私は何よりも欲しい。 |
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