2004年07月04日(日) |
窓という窓をすべて開け放した部屋には、風が絶え間なく滑り込み、束ねておいたカーテンがひらひらと舞い踊る。ベランダでは、強過ぎる日差しでへとへとになった薔薇の葉々が、息絶え絶えになりながらこれもまた揺れている。 お風呂場から響いて来るのは娘の嬌声。外へ遊びに行きたいという彼女を「お風呂をプールにしていいからと」なだめすかして、水遊びをさせている最中だ。水の中で、彼女は、ウォーターボーイズの真似事をしたり、プリキュアになってみたりと忙しい。私にはとうてい分からないような変身時の呪文を身振り付きで叫びながら、えいやっと見えない悪者をやっつける。彼女に見つからないようにそっと扉の隙間から覗いてみる私は、彼女に悟られないように、笑いをかみ殺すのに必死だ。 七月最初の日曜日。水風呂から上がってきた彼女は、いつものようにベランダに出ると、あれやこれやと大声で叫んでいる。「神様ぁ、私に自転車を買ってくださぁい、みんなみたいに乗りたいのですぅ」「私の気持ちを分かってくださぁい、私はいつもこの世界を愛しているのですぅ」。この二つの台詞、一体どうやって繋がっているのか、私には到底分からない。だから彼女の後姿を黙って見つめているわけだが、気づけばぷぷぷっと笑いが漏れてしまう。すると彼女から鉄拳が飛んで来る。「ダメよ、ママ、神様はみんな見てるんだからね!」。彼女のまじめな顔に、私も神妙になりながらごめんなさいと答える。「神様はちゃんと見てるのよっ!」繰り返してそう言いながら、彼女はやっぱり大通りに向かって叫ぶ。「ママを許してあげてくださぁい」。ちょっと恥ずかしい。
昨日の土曜日は、保育参観が為された。七夕にちなんでの制作。先生が順に折り紙の折り方を教え、最後に折ったものたちをのりで貼り付けてゆく。娘は先生の話を聞いているのかいないのか、あっちをきょろきょろ、こっちをきょろきょろ、果てはぼんやりとあらぬ方向を眺めていたりして、私はひやひやさせられる。 一通り参観が終わった後、懇談会となり、先生がこんなことをおっしゃる。「お絵描きの時、見本があればみんな一通りのことはできる。けれど、好きな絵を描いていいよと言うと、その好きな絵というのを自由に描くことができる生徒が、年々減ってきている。想像力がどんどん少なくなっているように感じられる」と。 そして今日、娘は大好きなお絵描きをしている最中に、何度か私に尋ねる。「ママ、紫色の髪の毛でもいいんだよね?」「いいよ、好きに描きなよ」「でもね、前に紫の髪の毛の人描いたら、こんなのいないよ、ってお友達に言われた」「ふぅん、そうなんだ。でも、今じゃいろんな髪の毛の人がいるよね。紅く染めてる人もいるし、金髪の人もいるし。ママの好きな美輪明宏っていう人なんて、まっ黄色だし。紫の髪の毛の人がいてもいいんじゃないの?」「そうなんだ、じゃぁ描こう」。そういうやりとりが何度かあった。今までそんなやりとりをいちいち考えたことはなかったのだが、ふと私は立ち止まる。紫の髪の毛でも、緑の花でも、茶色い空でも、それはそれでいいじゃないか。私は常々そう思っているが、彼女はそれを描くのに、少しばかりのためらいを覚えているのだろうか。これを描いたらまた違うよ、こんなのないよと誰かに言われるんじゃないか、と。確かに、そう言われるのはあんまりいい気分がしないだろう。でも。 私は試しに彼女のお絵描き帖のはじっこに、架空の動物を描いてみる。「ママ、それ何?」「これはママの夢の中に出てきた動物」「なんて名前なの? こんなの動物園にいないよ」「うん、動物園にはいなくても、ママの夢のなかにはいたからいいの。これはねぇ、夢の中でパパスって言われてたから、きっとパパスって動物なんだよ」「ママの嘘つきぃ、そんな動物いないもん!」「そう? いいじゃーん、ママはパパス知ってるもんねー」「…」「何?」「じゃ、これは何だ?!」。そうして彼女が描いた代物は、猫と鳥を合体させたような体をしていて、なおかつ狐のような尻尾を持っている動物だった。「うーん、これ、何て名前?」「これはね、クルミって言うの」「え?クルミ?」「そう、さくらクルミって言うのよ」「…何してるとこ?」「お空にお水あげてるの」「…」。それから彼女のお絵描き帖にはあっちこっちに架空の動物、架空の人間が現れる。そこはもう夢の動物園のようになってくる。私も面白くなって、彼女の絵の脇に、思いつくまま適当に描く。 彼女を寝かしつけて、今、そのお絵描き帖を改めて眺める。そしてちょっと思う。たった四歳の彼女の頭の中にはすでに、正しいものを描かなければいけない、というような思いが何処かにあるのかもしれないな、と。 でも、正しいものって何だろう。 正しい、とか、これが良いとか言われる道筋からはずいぶん外れた場所を歩いている私には、世間で言われるところの正しいものという意味が、実は今一つわかっていないのかもしれない。 でも、人様に迷惑をかけなければ、別にどんな道を進んでいったっていいはずなんだ。自分で自分の責任がちゃんと取れるなら、それでもう充分正しい道のはずだ、その者にとって。だったら、私は何を彼女に伝えてゆけばいいのだろう。 自分で考えて自分で選びなさい。自分がやったことに対しては自分で責任をもちなさい。言うことは簡単だ。でも、それを彼女が納得できるように伝えてゆくには。 結局、自分が思ったこと言ったことはすべて、自分に跳ね返ってくるんだなと改めて思う。私が私の道をちゃんと歩いていなけりゃ、彼女に教えることなんてまずできやしない。そう気づいて、私は思わず苦笑する。 娘よ、君はきっと苦労するだろうな、あっちふらふら、こっちふらふら、前進したかと思ったら後退し、後退したかと思ったらいきなり左に曲がってみたり。このどうしようもない母親の姿を、君はきっといつか、ため息混じりに眺めるだろう。そして、ママのようにはならないわ、とでも言いながら、ぷりぷり怒って違う道を歩くだろう。でもまぁそれはそれでいいんだ、きっと。 でもねぇ、娘よ。生きることの痛みが分かる人になってほしい。それだけは思うのだよ。実に情けない生き様を晒している母だけれども、そのことだけは強く思う。そのためには、やっぱり、想像力というのは大切なものだと私は思う。だから、常識なんて砦に雁字搦めにされることなく、大きくなっておくれよ。 ふと外を見れば、街路樹の葉々はやっぱり今夜も翻り。風は今夜もそうして街を渡ってゆく。娘の寝息と風の音。私の夜はそうして更けてゆく。 |
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