2004年07月05日(月) |
病院からの帰り道、あまりの日差しの強さに視界がくらくらする。かと思えば、突然かぁっと熱風が下から吹き上げてきたかのような熱さに頭部が飲み込まれ、自転車を支えにじっと立っているのが限界というような。地を這いずるような思いでようやく家まで辿り着く。夏はまだ始まったばかり。この夏を私は一体どうやって越えたらいいのだろう、夏の初めには、必ず私はそう思い途方に暮れる。 偶然つけたテレビで、いやなニュースが流れる。昭和六十三年に起きた「女子高生コンクリート詰め殺人事件」で逮捕された少年四人のうちの一人が、知り合いの男性を監禁して殴るけるの暴行を加えたとして、警視庁竹の塚署に逮捕監禁致傷の疑いで逮捕されたとのこと。いきなり大気の重力が二倍、三倍になったような感覚。テレビのニュースは私の目の中を滑り落ちるように流れ、私は憂鬱な思いでスイッチを切る。 いつだって思うのだ。私は。どうして被害者の人権は守られることが少なくて、一方、加害者の人権は何処までも守られてゆくのだろう、と。 たとえば今回の事件の被害者。それはもうとうの昔に命は失われ、その姿はこの世から消えてなくなっている。一方、加害者は当時少年だったというおかげで何処までも生き延びている。今回のことに限って言えば、生き延びた結果、再び犯罪を犯したということになる。法は言う。加害者の将来性を奪ってはいけない、まだまだ将来の可能性を秘めた少年たちをどう更正させるかなのだ、と。 でも、その結果、再び被害者が出現し、加害者はいまだ名前さえまともに報道されない。こんなとき思うのだ。あの時命を奪われた少女の、その命の重さはどれほどだったか、と。 私にとっての加害者も、再犯だった。それを知ったのは、事件が起きてからずっと後、私がPTSDとつきあうようになってからだった。知らされたとき、私は呆然とした。加害者は事件後、何度も私にわびの言葉を述べてきたが、あれはもしかしたらすべて嘘だったのか、申し訳なさそうにごめんねと言えば、すべてが帳消しになるとでも思ったか、そんなこと露ほども疑わずに信じた私は一体何だったのか、と。そしてまた、そのかつての事件も私の時と同様、会社ぐるみでもみ消されたという事実、その事実は、私の脳天を打ち砕くに充分なものだった。あぁこうやって、かつての事件も、そして私の事件も、人々にもみ消されてゆくのか、それっぽっちの代物だったか、私やかつての女性の一個の人間の価値とは、これほどに軽いものだったのか、と。 もしあの時私が命を失っていたとしたら。そう考えるとぞっとする。私が命を失うほどの事態が起きてたって、周囲はきっと言うのだ、「加害者の人権を守れ」「加害者の将来性を奪ってはいけない」、そして、「罪を償ったなら、その後またこの社会の一員として生きる権利が加害者にはある」などと。 でも、罪を償うって一体どういうことなんだ? 加害者が罪を償えば、再び被害者の命が蘇るとでもいうのならば、それならば多少は理解できる。でも、そんなことはあり得ないのだ。失われた命は失われたまま、二度と戻っては来ない。事件によって犯罪によって人間性を剥奪された被害者に、それまでと同じ人生は生活は、二度と戻って来ないのだ。そのことを、加害者或いは社会の人々は、一体どう捉えているのか。 今回のニュースの報道は、こんなことも告げていた。その男の言った言葉として、「その男は、かつて自分は人を殺したことがある。一人殺したら二人も三人も同じだ、と言っていた」だとか、「捕まったって平気だ、どうやったら警察の目をくらますことができるかなんてもうとうに知っている」と言っていた、だとか。 私の頭の中でがんがんと音が鳴り響く。音が大きくなるにつれて私の頭痛は酷くなり、果ては目玉が握り潰されるような痛みも覚え始める。何も食べていないはずなのに吐き気を覚え、私はトイレに駆け込むと、酸っぱい胃液を何処までも吐き出す。涙なんて出やしない、呆れて何の言葉も出ない。 確かに、加害者たちの中には、本当に心底反省をしている方々も存在しているだろう。けれど、どう反省したって、命は戻ってこない、その犯罪によって奪われた人間性はそう簡単に回復なんてできやしないのだ。やり直しなんてとんでもない。そんなものあり得ない。すべてを奪われたその場所から、新たに歩き出すしか被害者に術は残されていない。 たとえそれが、たった一度の犯罪だろうと、若い頃の犯罪だろうと、犯罪は犯罪なのだ。それ以外の何があり得るというのか。 こんなニュースを知らされるたび、私は反吐を吐く思いを覚える。実際に胃液をトイレに吐き出して、吐き出して吐き出して、干からびるかのような錯覚を覚えながら、それでも私は、この世界で生きていかなければならない。この世に生まれ堕ちた一人として。 憤りを覚えるとか、憎しみを覚えるとか、そんなもんじゃない。もうそこには、哀しみしかない。哀しみばかりが私をすっぽり包み込み、しばらくもう、そこから出ることは叶わない。 気づけば外は夕暮れて、あっという間に夜闇が辺りを包み。私は娘を寝かしつける。寝かしつけながら、私は何処までも哀しい。
人間とは、ヒトのアイダと書く。ヒトのアイダにいてこそ人間なのだ、と、その言葉が告げている。けれど、ヒトのアイダで生きるということは、なんて哀しいのだろう。 それでも、私は多分、信じたいのだ。哀しくて哀しくてたまらないけれど、それでも、人間はきっと何処かに、どうしようもなくいとおしい何かを持っているはずだ、と。人間とは、愛すべき存在なのだ、と。それがどうしようもなくこれっぽっちのものであっても。 そう、せめてそのことを信じていなければ、自分に課せられた重い荷物を引きずって死ぬまで生き続けることは、あまりにも哀しい。 |
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