見つめる日々

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2004年07月21日(水) 
 空の釜が煮え繰り返っているのではないかと思えるほどの暑さが続いている。最近は毎晩、水風呂に浸かる。もともとぬるくしているというのに、私の目を盗んで後から後から水をだばだばと足してゆく娘のおかげで、気づけばお風呂はプールと同じ程度かそれ以下の水温になっている。寒いね、冷たいね、と言いながら、それでもその冷たさが心地よくて、私たちは長々と風呂に浸かる。
 そんな娘が昨夕、こんなことを言った。「ママ、おかず買おうよ」。びっくりして、買わないよと答えると、娘のほっぺたがぷーっと膨れる。「だっておかず食べたいもん」。参った。ここ一週間ほどの献立を思い出して、私は頭が下がる思いがした。この暑さで私は食べる気力も作る気力もなく、ごくごく簡単なものを少量作ってテーブルの上に何品か出す、という程度で済ませてしまっていた。それは、娘がおかずが食べたいと言うのも無理はないような、さびしい食卓だったと思う。
 そして私は思い出す。かつて実家で家族として暮らしていた頃の、弟の言葉を。
 弟は、高校を卒業して料理人の道を歩み始めた。その折、彼はこんなことを言っていたのだ。「俺が料理人になろうと思ったのは、おふくろのせいなんだ」「どうして?」「姉貴、思わないか? おふくろさ、いつだって適当な料理だったろ? みんなのために作りましたー!っていう料理じゃなかった。俺は、あれが結構嫌いだった」「そうなの?」「だから、俺はそんな料理作りたくないと思って、じゃぁ料理をちゃんと勉強しようと思ったんだ。だから料理人になろうと思った」。この言葉を聞いたとき、私は何も言えなかった。確かに母の料理は、弟から見たら、適当以外の何者でもなかったかもしれないと思えたからだ。そして今。今、私はもしかしたら、そのかつての母と同じことを、娘にしてしまっていたのかもしれない。
 「ごめんね、じゃぁ今日は、あぁこが好きなもの作ろうか。何にする?」「エビフライ!」「…え?」「えび好きだもん!」「いや、でも、もうちょっと楽なものを…」「やだー!エビフライ!」「…はい」。
 子供を育てるということは、過去のトラウマにリハビリをさせるようなものかもしれない、と、この間、私はふっと思った。子供を育てるという過程で、私は否応なく自分の過去と向き合わざるを得なくなる。向き合った結果、私は、たいていにおいて癒される。それは、あぁあれはそういうことだったかという納得であったり、あぁこんなことがあったんだよな、あれは辛かったなという涙の味にも似た塩辛さであったり。
 昔まだ子供を授かる前は、子供を育てることで向き合うのだろう自分の体験なんて、きっと辛いだけだと思っていた。辛いだろうから、もしそうなったら、私は同じことを娘に為し、自分がかつてそうであったように娘に同じ思いをさせてしまうんじゃないか、そう恐れていた。
 確かに、そうかもしれない。でも、それ以上に、私は彼女と、彼女を通して向き合う自分の過去とに、癒されている。はっきりと、私はそう言える。
 自分の傷として残っている幾つもの痕。その痕と、真正面から向き合うことで、こんなにも癒されるとは。いや、正面と向き合うからこそ、逆に、素直に受け容れることができる。そんな気がするのだ。実際にそうなってみるまで、私は知らなかった。向き合うこと、受け容れることで、どれほどに自分の世界がやさしくなれるかを。
 どんな類のことでも、それが始まる前には、いろんな思いが交錯する。それは恐れであったり、不安であったり、辛苦であったり。でも。
 多分、恐れる必要は、何もないのだ。おのずとやってくるものを、やってくることを、遮る必要は何処にもないのだ。向き合って受け容れて、そうして私はきっと、また一つ、歳を重ねることができる。また一つ、何かにやさしくなれる。そんな気が、する。


遠藤みちる HOMEMAIL

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