見つめる日々

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2004年08月04日(水) 
 まん丸の月が瞬く間に欠けてゆく。濃闇に浮かぶその色は、地平線の辺りではぬめぬめと黄身色なくせに、天高く昇る頃には、これでもかというほど白光し、私の目にまっすぐに落ちて来る。
 毎日毎日うんざりする暑さが続いている。でも、見上げる空に浮かぶ雲は、ほんのわずかずつだけれども、夏から秋へと手を伸ばし始めているようだ。私に聞えない速度で、季節は一刻一刻、進んでいる。

 「そんなことであなたが傷ついてるなんて思ってもみなかった。あなたはとても強い人で、だから、何が起きたって傷つかないって思ってた」。彼女にそう言われた時、私は愕然とした。傷つかない人間なんて、この世に存在するのだろうか。もしいると仮定したとき、私はその一人として数えられてしまうのか。私はあまりに愕然として、その間も喋り続けている彼女の声は私の耳から耳へ、素通りしてゆく。
 私とあまり変わらない時期に私と同じ種類の犯罪被害者となった彼女と、いつどうやって出会ったのか、もう記憶は定かではない。以来、彼女は事あるごとに私を試そうとする。何を試そうとするのかといえば、かつて、君をずっと支えてゆくよ、守ってゆくよと約束した彼女の周囲の人々が次々に彼女から離れていった、その人たちと同じように私も彼女を見捨ててゆくに違いないという彼女の思い込み、それを試そうとする。私と交わす約束を次々に破棄してゆく彼女。自分から破棄しておきながら、そのたびに、私を見捨てないでと泣く彼女。ごめんなさいと謝ったそのすぐそばから、また同じ事を繰り返し、でも、自分が同じ事を繰り返しているということを自覚せぬまま、私を試し続ける彼女。
 試さずにはいられないという気持ちは、私にも覚えがある。きっとあなたも同じだ、きっと君も彼らと同じだ、何だかんだ言ったって、あんな体験を経て穢れ、その為に心まで患っているようなどうしようもない人間である私から君らは離れてゆくのだ、絶対に、と、もうそれはほとんど確信めいていて、その頃の私はその思い込みを微塵も疑うことをしなかったくらいだった。所詮あなたもみんなと同じなのよ、と、そう思い込むことで、私はその頃、死にダイブしかける自分を何とか救っていたのかもしれない。
 だから、彼女が何度私を試そうと、私はそのたびに御破算にした。何度約束を彼女が破ろうと、何度彼女が嘘をつこうと、動じないでここに立ち続けようと思ったからだ。でも、それで良かったのだろうか。
 今となってはもう、それで良かったのかどうか私には分からない。彼女は私を試すことに慣れ過ぎて、私も試されることに慣れ過ぎて、お互いに疲れていっていたのかもしれない。
 事件が遭った日に一人でいたくないから行ってもいいかという彼女に、いいよと返事をしたのは私だ。そして彼女は、私の家でこれでもかというほど酒を浴びた。私は、その日がどういう日であるのか知っていたから、黙って見守っていた。でも。
 事件に遭いPTSDを抱え込んで以来、次々に離れてゆく友人の後姿を見続けてきた彼女は、いつのまにか自分がいまだにこうやって苦しむのは去っていった友人たちのせいだと口にするようになり、自分が背負うはずの荷物も全部彼らの後姿に投げつけ、もう死んでしまいたいと繰り返した。私は、そういう彼女の姿を見ることに、多分もう、疲れていた。だから、何もかもを他人のせいにしようとする彼女の頬を、気づけば私は強く打っていた。
 声を上げて泣きじゃくる彼女。見捨てないでと泣きじゃくる彼女。そんな、まるでどしゃぶりの中泣いている捨て猫のような彼女に、私はどうすればいいのだろう。半ば途方に暮れ、私は、私の気持ちを彼女に伝えた。
 ねぇ、そうやってあなたが自分で自分をどんどん傷つけてゆくのを見るたびに、私はとても傷つくんだよ。あなたがそうやって他人のせいにするのを見るたびに、私の心はとても痛むんだよ。あなたが死にたいと口にするたび、私はこれでもかというほど傷ついているんだよ。
 そう言った私に、彼女は言ったのだ。「そんなことであなたが傷ついてるなんて思ってもみなかった。あなたはとても強い人で、だから、何が起きたって傷つかないって思ってた」と。
 ねぇ、本当にそう思うの? この世の中に傷つかないで生きてゆける人なんて本当に存在するとあなたは思っているの?
 もう、それ以上、私は何も言えなかった。いや、一言だけ確か言ったのだ、私は。そう、確かこんな言葉だった。「ねぇ、私があなたを見捨てるんじゃない、あなたが私をそうやってずたぼろにして、私を捨ててゆくんだよ」と。
 もうそのとき、私の中には、その言葉の他に、何もなかった。

 PTSDだから、性犯罪被害者だから、だから私は幸せになれない、生きるのがこんなにも苦しい、なんて、そんなふうに嘆いていられた季節は、私の中ではもうとおに過ぎ去ってしまった。PTSDだろうと性犯罪被害者だろうと、私は生きてゆくしかないし、生きてゆこうと思っている、生きることがどんなに辛いことでも、私は生きて幸せになろうと思っている。だから、私はもうそんな位置に来てしまったから、今の彼女の痛みをもはやこれっぽっちも分かっていないのかもしれない。そんな私はもう、彼女に何の言葉もかけるべきじゃないのかもしれない。でも。
 それならばなおさらに。
 私は生きていこうと思う。いつかあなたが、この私もかつての自分の友人たちと同類なんだと見捨てていっても、それも一緒に受け容れて、それも一緒にこの背中で背負って、私は自分に死が訪れるその日まで歩いていこうと思う。どんなことを経ようと、人は生きていけるんだと、そう思う私は、それを体現し続けようと思う。そして、あなたともし遠く離れたとしても、あなたがいつ振り返ってもいいように、ここに灯りは点し続けていたいと思う。私がここで生きているという証に。
 あなたの頬を打った私の右手は、とても痛かった。この痛み、覚えておくよ、私は。そして、たとえば二人してそれぞれに、十年後、二十年後、まだ生き延びていられたとして、そこで再び会えたなら、そういえば昔こんなことがあったねと、笑って話せるように。
 だから、私はやっぱり生きていくよ。まっすぐに。私が生き続け、ここで笑っている、それが、私が今できる唯一のこと。過去にあったあの忌まわしい出来事に対して、それに関わった大勢の人間たちに対して、それは少し復讐という色合いを帯びているかもしれないが、それと同時に、今もずっと私を見守ってくれている私の大切な愛する人たちへの、溢れんばかりの感謝の気持ちとして。

 ねぇ、今、あなたに私の声は届きますか。
 泣きながらでもいい、死にたいと呟いていてもいい、どうかあなたが、今日もまた、この一日を越えていってくれますように。


遠藤みちる HOMEMAIL

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