2004年08月10日(火) |
真夜中、風が止まる瞬間がある。それはほんの一瞬であったり、幾つか数を数えられるくらいの間であったり、一日一日それぞれだ。そしてその、風の止んだ瞬間の光景に立ち会うとき、その景色は間違いなく、私の網膜に一回一回ちりちりと刻まれる。刻まれた光景からは、まるで地の奥底から低い低い声で呼ばれているような錯覚が匂い立つ。私の心臓は、その声にどきりとする。 いつのまにか、真夜中の蝉の声は薄れ、気づけば鈴虫の声が何処からか聞えて来るようになった。昼間のあの強烈な日差しの中ではなかなか感じられない次の季節の気配。今年の夏の暑さにすっかりぼろぼろになった私は、一握りの安堵を覚える。 今もまた頭の中で声が響く。右から私を野次る声が飛んでくるかと思えば、左から今度は私を擁護する声が飛ぶ。びくつきながらふと振り返ると、私は、膝を抱えてうずくまったまま声を失っている幼子の姿を見つけ、再び前を向けば、さっきまでいなかったはずの何処かで会ったことのあるような誰かの姿がそこに在る。そしてそれらはみんなそれぞれに、それぞれの言い分を持ち合い、その中央に立つ私が、そろそろと舞台を降り、後方に隠れても、遠慮なく吐き続けられる。だから私はたいてい、傍観者のように声のやりとりを見つめている。 気がつけば私の周りには薄い膜のようなものが張られている。それは、飛び交う声から私を保護するために私がかつて生み出した膜であり、だから私は、体をできるだけ小さくして、膜の中に隠れる。ここは安全なはずだ、と。 でも、安全ではないのだ。もう膜の存在を知っている声たちは、容赦なく私に襲いかかる。いや、襲いかかるのではない、私の内奥に直接に入って来るのだ。だから逃げようがない。結局私は諦めて、そして、ただ沈黙する。
診察室で主治医に何か言いかけた私に、壁を越えて隣の誰かの声が突き刺さる。咄嗟にすがるように主治医に言う。 「先生、今声がしたでしょう? 突き刺さるんです、今のあの声は私にかけられたものでもないし、私には関係ない声だと私自身分かっているのに、突き刺さって来るんです。そしてじきに、心臓がきゅうきゅうと痛くなる」 「…」 「私の中でも声がする。幾つも幾つも。だから私は途方に暮れる。外からも内からも声が降り注いで突き刺さって、私は一体何処に行けばいいか分からなくなってしまうんです」 「まだまだ混乱しているのね」 「…」 「…」 「疲れちゃうわね」 「はい、疲れます」 「…」 「どうして、自分には関係ない、全く関係のない声だと分かっているのに突き刺さってしまうんだろうって思います。それは言葉じゃないんです、音に近いかもしれない、でも違うかもしれない。私の思考を分断するように声が降って突き刺さってくるんです。だから私は自分が何を考えているのか分からなくなってしまう、迷子になってしまう、一体何処へ行けばいいのか、何処へ行こうと思っていたのか、つい一瞬前のことでも分からなくなってしまう」 「…虫はまだ見える?」 「はい、見えます」 「虫は死んでるの?」 「この間は死んでたんですけれど。今はまた生きてます。それから、これはそれとは違う、夢の話なんですけど、私の口から虫がぞろぞろと這い出てくる夢を見たりして、とても厭でした」 「…」 「…」 「焦らないで。来週まで生き延びてくれればそれでいいから。ね、生き延びてまた会いましょう」 「…はい」
病院の帰り道。途方に暮れて空を見上げる。あぁ、空ももう、秋に向かっている。空に伸ばしかけた手がふと止まる。そして私は急いで自転車にまたがる。 あの樹に会いにいこう。私は一心不乱に自転車をこいで、坂をのぼって、その場所へ急ぐ。息を切らして、ただひたすらに。 そして。 樹はそこに在る。ただ在る。病にかかり、大きく空へ左右へ張り出させていた枝はもうとうの昔に切り落とされ、無残な姿を今はただ晒している樹だけれども。 私は樹の姿を捉えられる場所に立ち、耳を澄ます。目を閉じて耳を澄まし、私の掌にだけ意識を集める。かつてほんの一瞬だけ触れたあの幹の感触が、じきに私の掌に蘇って来る。あぁそうだ、樹はいつだってここに在る。私が振り返りさえすれば、じっとここに在る。時に私の道標になり、時に私の止まり木になり、そうしてずっとここに在る。 澄ました耳の奥から、小さな小さな音がこぼれ出してくる。とっくんとっくんとっくん。やがてそれは大きな波となって、私を包み込む。とっくん、とっくん、とっくん。 そう、まだ大丈夫。私はまだやれる。この世界からはじき出されそうな錯覚を持ってしまうことばかりだけれども、世界は私をはじいているのではない、世界はいつだってここにあって、そこからはじかれてしまうと感じるのは私の弱さだ。私の驕りだ。世界はいつだってこうやってここに在る。ここに開かれている。私はだから、どんなに迷うことがあったとしても、ここに在り続ければいい。ただそれだけだ。 風がふいっと私のうなじを撫でてゆく。大丈夫。私はまだやれる。 私はようやく目を開けて、再び樹をじっと見つめる。さぁ、帰ろう、自分の場所へ。 再び空を見上げれば、横切る鳥の姿。そして私は、家路を辿る。 |
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