見つめる日々

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2004年10月10日(日) 
 観測史上最大という台風が通り過ぎていった。まだこの街に台風がいる最中、表通りの街路樹の先が雨飛沫で殆ど見えなくなるほどだった。街路樹はもちろんこれでもかというほど撓り、街灯は上下左右に揺れ続けていたけれども、こちらがその状態に呆気にとられているうちに、台風は通り過ぎてしまった。そして残ったのは、アスファルトのあちこちに散らばる木の葉や塵、そしてこの静けさ。まるで地球の上、ぽっかりとただ一人、この場所に取り残されたような、そんな静けさ。誰もいなくなった街にただ一人、取り残されたような心細さが、私の中でちろちろと揺れる。

 まだ離婚する前、元夫に私はよくこんなことを言った。もし娘が私と同じ目にあってしまったらどうしよう。そのたび元夫は鼻で笑った。遭う訳がない。どうして? 絶対に娘はそんな目には遭わない。だからどうして? どうしても。そんな元夫に、私はそれ以上何も問いかける言葉を持たず、一人黙り込むのが常だった。
 ここのところ繰り返し見るあの体験に纏わる幾つもの夢、そしてその夢から醒めて私が一番最初にこの世界で見るものは娘の寝顔だ。それはとても穏やかな、いつだって穏やかな寝顔。そして私は思ってしまうのだ。もしこの子が同じ目に遭ってしまったら。あまりに彼女の寝顔が穏やかで、だから、恐いのだ。もし同じ目に彼女が遭ってしまったら、と。
 元夫が言いたかったのだろうことは、私にも何となくは分かっていた。呆れるほど生命力の強い、そして慎重なこの娘が、私が出会ったようなあんな体験にみまわれることはないだろう、と、彼は多分、この子の生命力を信じろと、私に言いたかったのだろう。それは理屈でも何でもなく。
 でも。
 私だってかつては、そんな子供だったのだ。周囲が呆れるほどにエネルギーを漲らせ、これでもかというほど強気で突っ走る、そんな子供だったのだ。そんな子供だった私が、大人になって、ああいう体験に襲われた。
 だから、私はどうしても、不安を拭えないでいる。もしも、もしも、と。それはもしもと思ってしまうだけで私の心臓を抉るに近しい、あまりにも恐ろしい想像だと自分でもわかっているのに。
 もしそんなことがあったら。私はどうするだろう。彼女はどうなるのだろう。私は彼女を支え続けられるだろうか。いや、そもそも支えられるのだろうか。彼女は生き延びてくれるだろうか。私がこんなふうに生き延びたように、生き延びてくれるだろうか。
 私は何人もの友人が死へダイブするのを見送ってきた。その中の一人に、彼女もなってしまったら。そうしたら私は。
 考えるだけで恐ろしい。おかしな話だが、もし私がもう一度、この人生において、似通った体験を経ることが運命付けられていたとしても。私は多分大丈夫だろう。かつて生き延びたように、きっと私は生き延びる。おかしな話だが、そんな確信が私の中にはある。けれど。それは、実際ここまで生き延びてきた自分がいるからそう思うのだ。ここまで生き延びてくるのがどれほど難しかったか、どれほどしんどかったか、いやというほど思い知っている、だから、もう一度同じ体験を経たら私はきっととてつもなく打撃を受けるだろうことも分かる、けれども。けれども私は、きっと生き延びる。生き延びることができる。でも。彼女は。
 私は恐い。自分がまたそんな体験を経る可能性を持っていることが恐いのではなく、彼女がもしかしたらそんな体験を経ざるを得ない可能性を秘めているということが。何よりも、何よりも恐い。
 だから私は、自分がかつての体験に関係する夢を見るたび、そんな夢を見て目を覚ますたび、どうしようもなく辛くなる。不安になる。今隣でこんなにも穏やかな寝顔を浮かべる彼女が、もしも、もしも同じ目にあってしまったら、と。そして途方に暮れるのだ。そんなこと想像したって何の足しにもならない。足しにならないどころか足枷になる。なら想像することなんて止めてしまえばいい。止めてしまえば。
 でも、その想像を止めることができないのが、そんな体験を実際に経てしまった私なのだ。私にもあり得ないことが起きたように、彼女の身の上にもあり得ないはずのことがそうやって起きてしまうのかもしれないじゃないか、と。

 想像して哀しくなる。途方もなく哀しくなる。そして私は唇を噛む。想像してしまう自分を呪う。そして再び彼女の脇に横になる。横になって、彼女の掌やほっぺたに何度も何度もキスをする。何もできないから、私には何もできないから、だから必死にキスをする。お願いだから彼女を守ってと。そう思いながら何度も何度もキスをする。

 今夜、私の隣に彼女はいない。じじばばの家にお泊りするんだと彼女が決めた。だから彼女をじじばばに預けて、私は一人、この部屋で夜を越える。きっと今頃、じじばばの間で眠っているだろう彼女を、私はぼんやり思い描く。明日迎えにゆくまで、どうぞ彼女の心が穏やかであったかくて楽しいものでいっぱいでありますように。そう祈りながら。
 部屋はしんと静まり返っている。開け放した窓の外も。街路樹の葉々たちも、今は時々そよと揺れるばかり。夜はしんしんと、そうして更けてゆく。


遠藤みちる HOMEMAIL

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