見つめる日々

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2004年10月16日(土) 
 久しぶりに澄み渡る空。待ってましたとばかりに私は朝から何度も洗濯機を回す。その合間合間にプランターを覗き込めば、あちこちに蕾が。白に黄色に桃色に朱赤。あちこちの葉を撫でながら思う、今年の夏はどれほど彼らはしんどかっただろう。あちこちすり切れた葉、黄色く病んでしまった葉、何度も壁に当たって擦れたのだろう黒い傷のある茎。満身創痍とまではいかないものの、みな、ずいぶんと傷だらけの姿をしている。それでもすくっと立って日の光を一心に浴びようと空に手を伸ばす姿は、私の中にいる誰かの姿と重なって見える。この樹はあの彼女に似てる、あっちの樹はあの彼女に。私の中の幾つもの親しい顔たちが重なって、いっそう薔薇の樹たちがいとおしくなる。きっとこの空の下、彼女たちは今日も頑張って生きているだろう。そう思うと、私もしっかりせねばと思う。
 このところ離人感が酷いために、いっこうに本が読めない。仕方ないよなと思いつつ、諦めの悪い私はそれでも、一日に何度か本を開いてしまう。開くものの、やっぱり読めない。読めないということをびっしりとページを埋め尽くす字たちにそのたびつきつけられるのは、あまり気持ちのいいものじゃぁない。日記帳を開いて言葉を綴ろうとしても、なかなか前に進まない。今自分が書いた字がもう、他人の誰か或いは遠い何かにしか思えない。書くほどに迷子になる。今書いた「あ」という字の後に、私は何を書こうとしたのか、それさえ分からなくなる。そうやって悪戦苦闘しているうちに、一体私は何をしているのか、何をしていたのか、その境がどんどん遠くなる。やがて何が何だか分からなくなって、私は握っている鉛筆さえ他人のもののように思えて、溜息と一緒に鉛筆を置く。
 目を閉じると、そこには何故か最近いつも海が在る。砂浜のない海。埋立地の海。海岸線はだから何処も柵で覆われ、それを越えることは禁じられている。打ち寄せる場所を失った波は、あっちこっちの壁にぶつかり飛沫を上げる。それはなんとなく、自分に似ているように思える。それでもいつまでもいつまでも波は繰り返し壁にぶつかり、ぶつかって砕けるしかないというのにそれは永遠に続けられ。
 でも、徒労といわれようと何だろうと、私は多分、抗い続けるんだろう。いつか辿りつく砂浜を夢見て。それがどれほどの人に徒労だと教えられても。
 数日前から続く右半身の痛みに耐えかねて訪ねた病院で、私の腕の傷を見た医者が私にこんなことを言う。ずいぶんいろいろあったみたいですねぇ。だから私も答える、そうですねぇ、いろいろありましたねぇ、でももう昔です。じゃぁこの傷なんてずいぶん深く切っちゃったのねぇ。そうですかねぇ、覚えてません。縫わなかったのが不思議なくらいですね。そうなんですか、よく分からないです。きれいな腕なのだから、もう傷つけないであげてくださいね。きれいな腕ですか、はっはっは、思ってもみませんでした。きれいな腕だと思いますよ、私は。はぁ、すみません。いえ、私に謝ることじゃぁないですよ、ははは。そうでした、ははは。
 そうして終えた診察の後、処方された漢方薬ニ種は、臭いし苦いしで、飲むたびに顔をしかめずにはいられない。そんな私を面白がって、娘がこれらの漢方薬を飲むときを妙に楽しみにしている。ママ、このお薬まだ飲まないの? お食事の後ね。またおいしくないんでしょ? うーん、薬っておいしいのないよね、薬だからね。ふぅん。でもおいしくなくても飲まなくちゃいけないんでしょ? うーん、そういうことだね。ママはお薬たくさんあるねぇ。ははは、あるねぇ。今度先生に、ママはいっぱいゲボするんですって言っとくね。えっ、やだ、言わないで。どうして? 恥ずかしいじゃん。そうなんだ、じゃぁ秘密にしとくね。うん、秘密にしといて。秘密にしといてって言ったって、多分彼女は喋ってしまうだろうと思いつつ彼女の横顔を見つめれば、実に正直に、わくわくした表情をしている。あぁやっぱり。苦笑しつつ白湯に漢方薬を溶く。ママ、早く飲んで、ほら、飲んで。私は思いきり顔をしかめながら、それを一気に飲み干す。

 たったこれだけのことを書くのに、私は一体何時間を要しただろう、いや、何日を要したのだろう。すべてが泡のように消えてゆく、掴もうとしてもするすると逃げて散るシャボン玉のように。

 気がつけば真夜中。開けたままの窓からは、時々往き過ぎる車の音が入ってくる。通りの向こうに立つ街路樹も街燈も、しんしんと。小さな風に時折揺れる葉々だけが、私に刻々と過ぎる時間を教える。ちょっと油断すると、この景色さえ遠いものに思えてしまう。私の肌を往き過ぎるこの風の匂いも。


遠藤みちる HOMEMAIL

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