2004年12月10日(金) |
ただの一晩なのに、繰り返し目が覚める。それがもう私の眠りの習慣になっている。最後に目が覚めるとき、それは、ちょうど夜明け前。だから私は毎日のように、夜が明けてゆくのをこの窓からじっと眺めている。 西側の窓から見える風景は、屋根が何処までも続く、何の変哲もない風景だ。多分誰の町にも、こんな一角があるだろう、そんな風景。或る時はしっとりと濡れた、或る時は耳中がきんとなるほど乾いた、夜が、しんしんと垂れ下がる時間。風は目に見えない筋を描きながら、ゆっくりと夜を徘徊する。街路樹の枝の合間をくぐりぬけ、もう閉店になった店の看板をとんとんと叩きながら、気がつけば風は何処かにするりと消えてゆく。のっぺりと広がる濃闇がある瞬間、すぅっと薄れる。あぁ近づいている、私は心の中、そう呟く。朝が近づいている。 一度薄れた濃闇は、決して後戻りすることなく、徐々に徐々に薄らいでゆく。やがて空全体が、街全体が、ゆっくりと寝返りを打つ。音もなくくるりと。東からさして来る白い光が、まっすぐに街を包み込み、やがて街自身が発光する瞬間。 空が割れるのだ。 ほんの一瞬、空が割れる。 私はこの一瞬が好きだ。たとえようのないほどに好きだ。あぁ新しい一日が始まるのだ、と、そう思える瞬間が。それは、まばたきをしていたなら多分見逃してしまう、そんな一瞬なのだ。けれど確かに一瞬が存在する。その存在が、夜を割って、朝を産む。 そして私は再び、床に入る。娘のあたたかい小さな体の横に冷えた体を滑り込ませ、じっと息を潜める。そして耳だけを澄まして、街の音を、朝の音を、聴いている。
自分と同じ種類の被害に遭い、私と似通った症状に何年も何年も苦しむ友人の一人が、首を吊る。誰もいない部屋で、外界と繋がるものは壊れかけた携帯電話一つきりで、彼女が首を吊る。薬を馬鹿呑みしても手首を切っても死にきれないことを思い知らされ、最後の手段と首を吊る。 けれどそれにも失敗した彼女が、数日後、電話をかけてくる。私はそこで、彼女の口から、数日前彼女に何が起こったのかを知らされる。 猛烈に怒り、彼女を怒鳴り飛ばしながら私は、本当は哀しかった。とてつもなく哀しくて切なくて、たまらなかった。だからなおさらに、声は荒れ、私は彼女を罵倒し続けた。あんたがもしその時死んでいたら、遺された私たちはどんな気持ちになるか、あんたに分かるか、と。くだらないことを、延々と彼女に吐き続けた。泣きながら彼女は、何を思っていただろう。私には知る術もない。 ごめんね、もう思い知ったから、寿命が来るまで私、生きるよ、と、彼女がくぐもった声で言う。あたりめぇだろ、ふざけんな、馬鹿、と、私は受話器が割れるくらいの大声で怒鳴る。 怒鳴りながら、違う違うと私は思う。本当はこんなこと言いたいんじゃない、生き残ってくれてよかったよ、と、そう言いたい。けれど、言えない。 ねぇ、死んでも何も始まらないよ。私たちは生き延びなくちゃ、生き残らなくちゃ、ここまで生きてきたのだから、死が迎えに来るその日まで、生き残らなくちゃ。これから先に何があっても。また同じような被害に遭うなんてことが起きたとしても。 ねぇ。
「あのね、ママ、秘密の話しがあるの」 或る夜、娘がそう言うので、横になっている娘の口元に私は耳を寄せる。 「あのね、ママ、ママが死んじゃったら、みうの周りには誰もいなくなって、みう、一人ぼっちになっちゃうでしょ? でもね、ママが死んじゃっても、みうは生きていかなきゃならないのよ」 娘の言葉に、私の心臓がばくんと音を立てる。何を突然、そんなことをと思いながら、でも、心臓が大きく大きく、ばくんと脈打つ。 「一人ぼっちになってもね、生きていかなきゃならないの」 「…そうだね、みうは生きていかなくちゃならないのよ」 「だからね、ママ、生きててね」 「うん、生きてるよ。みうが大人になるまで頑張って生きてるからね」 「うん、きっとね」 「うん、きっと」
いつのまにか寝息を立て始めた娘の髪を、そっと撫でる。 大丈夫、私はあなたの隣で、いつだって生きている。死が迎えに来るその日まで。
さぁ、じきにこの夜も沈んでゆく。そしてまた、新しい一日が始まるのだ。 |
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