2004年12月19日(日) |
どんよりと曇った空の下、貫くように列車が走る。家を出た頃はまだ夜明け前だった。濃闇色が街中に垂れ込めるその中を、歩いてきたのだった。そして今、列車が走る。ただ走る。私を乗せて。 ああやっと還る、やっとあの場所に届く、その想いで私の心は今にも踊り出しそうなくらい膨れ上がっている。歓声がこぼれてしまわないように、だから私はじっと唇を噛む。場所が近づくにつれ、私の鼓動は大きくなり、もし唇をほんのちょっとでも開いてしまったなら、何もかもがどっと外にこぼれ出してしまうのではないかと思えるほどに。 早く、早くあの場所に還りたい、あの砂を踏みたい、私の全身であの場所を感じたい。その想いに急きたてられるようにして、私はどんどん早足になる。途中の景色を楽しもうなんて余裕は、どんどん失われ、ただもうあの場所へ、あの場所へと急ぐ私がそこに在る。 そして着いたその場所。 ああもう、何もいらないのだった。ただここに私が在るということ、この場所に私が在るということ、それだけでいいのだった。それだけですべてが満たされていると言ってしまえるくらいに、私はただその場所に在り、その場所で呼吸する、そのことが、私の全身を満たす。
私は変わっただろうか。この場所は変わっただろうか。この砂は、この空は、この風は、変わっただろうか。前に訪れてから約二年という歳月。その間に、私たちはみなそれぞれに変化したのだろうか、それとも何も変わらずにいたのだろうか。 一歩、また一歩、私は砂を踏む。私の足の裏で砂が蠢く。しっとりと濡れたような感触が、私の全身を一瞬にして貫く。再びここに還ってくることができたという喜びが、私の全身を貫く。 ただ前を向く。私の前には厳然と砂原が広がり、その砂の一粒一粒を私は肌で噛み締めながら一歩一歩を進める。そうやって歩いて歩いて歩いて、目の前に現れるのはまっすぐに広がる海。薄碧色をした波が、一つ砕けてはまた一つ砕け、それは何者にも冒されることのない、十全な光景。ああ私は、還ってきたのだ。 砂丘の中程で私は立ち止まる。立ち止まってゆっくりと空を見上げる。見上げた空は相変わらずどんよりと曇っているけれども、この雲の向こうに太陽が在るというそのことが、酷くはっきりと私の心を射るのだった。私は信じてここで待てば良いのだと、何の疑問もなく信じられる。ただそれだけだった。 空からゆっくりと目を足元に戻し、そして再び、私を取り囲むこの砂原を見まわす。ゆっくりとゆっくりと味わうように。 私の視界を遮るものは何もなく、地平線が、水平線が、私を円く囲む。その中心に立つ私は、砂の温みを、風の温みを、そして空の海の温みと存在とを、ただ感じる。そう、言葉になど変える必要は今ここには何もない。私はここに立ち、全身を使ってこの場所を呼吸すれば、それだけで充分なのだった。 ふと右を見やれば、そこには水鏡。そっと足を踏み入れる。一瞬にして幾重にも広がる波紋。一斉にざわめく水。声なき声が、じんじんと私の足元から這い上がって来る。そしてやがて私の全身を満たす。
砂にまみれ、風にまみれ、空にまみれ、波にまみれ、気づけば全身びしょ濡れになり。ぺたりと浜にしゃがみこめば、私の太ももにじんわりと砂の温みが伝わってくる。ふと思い立ってノートをびりりと破き、ライターで火をつける。一瞬の躊躇いの後、白紙がぶるりと燃え出す。私は火が途切れぬように、まだ何も書いていないページを次々に破る。そして火にくべる。ほんの一握りの火に手をかざす。あたたかい。ただそれだけ。 白い紙がやがて灰になり、一握りの火は自ずから消え、砂浜にはまた私が在るのみ。目の前で絶えることなく続く波砕の音を私は今見つめる。私の耳はもちろん、目も鼻も口もすべてが、この世界をじっと見つめる。見つめあう私と世界との間には、何の障壁もなく。ただここに私が在り、世界が在る。 やがて雲が所々途切れ、そこからこぼれ出すのは日の光。もうすでに傾き始めている太陽が雲間から伸びて最初に描いたのは一筋の道。水平線の向こうからまっすぐこの場所へ向かうかのように海上に描かれる一本の道。信じて足を踏み出したなら多分水平線の向こうまで歩いてゆけるかのような、そんな一本の光の道。同時にその道は、やがて来る別離を私に指し示す。 だから今を呼吸するのだ、胸いっぱいに。全身で呼吸するのだ、その時を私がちゃんと受け止め越えてゆけるように。 砂と風と海と光と、そして私が在る。ただそれでいい。言葉でこの世界を捏ねくり回す必要など、何処にもない。その歓びが、私の内奥からどんどん沸いてくる。私はそれを感じながら、この場所を、この世界を、何度も何度も噛み締める。 今この砂に残る私の足痕は、じきに消えるだろう。明日吹く風に洗われて、消えてゆくだろう。明後日この場所を訪れた誰かはだからきっと、私がここに在たことなど、露ほどもうかがい知ることはない。そして今度はその誰かの足痕が、この砂の原に刻まれる。その繰り返し。一体何人の者がこの場所を訪れ、この場所に痕を残し、去ってゆくのか。この砂には一体幾つの足痕が、眠っているのだろう。 足痕が消えることに、かつて私は恐れを抱いた。足痕が消えるというそのことが、私を不安に陥れた。けれど今は。 そのことが私を静かに満たすのを感じる。消えてゆく足痕を今はいとしいと想う。たった一歩進むごとにその足痕は一瞬にして過去になり、もう今の私のものではなくなる。私が所有できるものなど実は何処にもない。私はただこの一瞬を、今というこの一瞬を横切るのみ。 気づけば空は少しずつ黄色味を帯びており。その色味はやがて熟れた橙へと変化し。 もう一度私はゆっくりと深呼吸する。濡れた髪もいつの間にか乾き、そして私はもう自分がこの場所を去る時刻がやって来たことを知る。覚醒した私の細胞の一つ一つが、今、改めて動き始める。澄み渡る細胞の一つ一つが今、手に取るようにこの目にはっきりと見える。 さぁ帰ろう、私は私の場所へ。再びこの場所を訪れる日はいつの日か。でも。 この場所へ私が還ろうと思えばいつだって還ることができるのだと。たとえこの砂原が半分埋もれてしまっても。私の足痕はこの砂の中に眠っている。この砂が消えてなくなっても、私の足の裏が覚えている。私の細胞のひとつひとつが覚えている。この場所は私が還ることができる場所なのだということを。
今、再びこの街に戻った私は、日常にまみれ、あくせくしながら一瞬一瞬を越えてゆく。慌しい景色に時間に、迷子になってしまいそうな不安を時に覚えながら、それでも毎日を越えてゆく。 そしてふとした時にありありと思い出すのだ。あの場所のことを。迷子になりそうな私に風が、陽が、空が囁くのだ。ここだよ、ここに在るよ、世界はここに在て、おまえを見つめてる、と。 だから私は、迷う足を止めて、ただじっと耳を澄ませばいい。そうすれば、世界はおのずと開けてゆくのだから。 今窓の外を見やれば濃闇がじっとうずくまっている。そして数えたら両手で余るくらいの、数にしたらほんの僅かな星たちが瞬く。 私はここに在る。 |
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