見つめる日々

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2005年02月02日(水) 
 明け方目が覚める。まだカーテンの向こうは薄暗い。いつものように私は、隣の娘の寝顔と寝息を確かめる。彼女がまだ赤子だった頃、私は、眠る彼女の傍らで、何度も何度も彼女の寝息を確かめていた。恐かったのだ。この寝息がもし突然に止まってしまうなんていう現実があり得ることが。そんな様子の私に呆れた夫が、いい加減にしなさいと言うほど、私は何度でも、彼女の寝息を確かめていた。自分がこの世から消去されることには殆ど恐怖を感じない私なのに、彼女の命が消去されてしまう、そのことは、ほんのひとかけらでも想像することが、何よりも恐かった。そんな現実があり得ませんように、あり得ませんようにと、毎日毎瞬、そう願っていた。今思うと、少し、自分でも笑ってしまうけれども。
 そんな娘も今月末には五歳になる。20キロもある体を私は今日も自転車の後ろに乗せて、坂を下り、坂を上る。今日はことのほか冷気が頬に染みる。ひゅー、冷たいよー、と、自然に声が出てしまう。娘も私を真似て、ひゅーひゅーと声を上げる。北の国では今日も、雪が降っている。天気予報でちらりと見た映像が頭に浮かぶ。絶え間なく降り続く雪の粉。容赦なく積もる雪の山。きっと今何処かの街の片隅では、必死に雪かきをする人の姿があるに違いない。顔を少し上げると目の前に広がる空、この街の空はこんなに明るいけれども、同じこの空の何処かには雲がたまって冷気がたまって、雪を生み出し続けている。同じこの星の上の出来事。
 仕事がぽっくり空いた今日。掃除をしようと思っていたのだけれど遅々として進まず。それじゃぁせめて、と、ベランダの薔薇たちに水をやる。
 とくとくとく。如雨露から零れ落ちる水が、渇いた土にごくんごくんと呑み込まれてゆく。プランターの下から水が零れ落ちるのを確かめて、私は次のプランターに移る。そうやって何度も何度も、ベランダと水場を往復する。
 秋に植えたアネモネは、驚くほどに緑の葉を茂らせている。こんな冬の真っ只中だというのに、彼らはどっさり手を広げている。でも、上にはなかなか伸びてはこない。これ以上大きくならないものなのだろうか。私はアネモネを植えるのは初めてだから、何も分からない。もう少し君たちは大きくならないのですか。尋ねてみる。何の返事もない。葉っぱはこんなに茂っているのに、大きくはならないんですか。何の返事もない。でも、ぽつり、ほっといてよ、と言われている気がした。錯覚だろうか。私はちょっと笑ってしまう。はい、分かりました、私は君たちにお水をやっていればいいんですよね。時々眺めながら。アネモネから返事はないけれど、こっそり笑いながら、私はそんなことを思う。手をかけなくてもだめだけれど、手をかけすぎても植物は育たない。適当に眺めて世話をして、適当に放っておくほうが、好き勝手に育ってくれる。アネモネも、きっと、過剰な世話はいらないわ、と思っているに違いない。
 薔薇の樹は今、新芽の嵐。硬い硬い赤い芽が、枝のあちこちに潜んでいる。ここにも、あそこにも、ああ、こんなところにも。ベランダを冷風がひゅるりっと過ぎてゆく。こんな冷風に晒されていても、彼らはじっとしている。そんな新芽を眺めているとき、私は、春がやがて来ることを確信する。どんな冬であっても終わりは来る。どんな寒さであっても終わりは来る。そしてこの赤い芽が、次々に開き、次々に伸びて、暖かい日差しを一身に浴びるときがくる。彼らを見ていると、私は、彼らの命の丈夫さを、信じないではいられない。彼らの命、私たちの命。きっと、思っている以上に儚くて、同時に、思っている以上に丈夫なのだ。しぶといのだ。命というものはきっと。
 ベランダの手すりにもたれて、街を眺める。街路樹は裸ん坊。樹皮の褐色はすっかり渇いている。こうして眺める街に、今、緑はひとかけらさえ見当たらない。けれど、今このときも、彼らは生きていて、春を待っている。信じている。もしかしたら明日、この街が崩れ落ち、命を落とすかもしれないのに、その時に自分たちの命が絶えるかもしれないのに、決して信じることをやめようとはしない。死ぬその瞬間まで、彼らは自分たちが生きることを信じている。いや、そもそもそんなこと、考えてなんて生きていないのだろう。余計な理屈をこねてあれやこれや論じるのは人間ばかりだ。彼らはただ、この世に生まれたからには死ぬその日まで生きてゆくのだという、そのことを、至極当然にまっとうする、それだけなのだ。
 時々考えることがある。娘が年頃になって、自ら死にたい死んでしまいたいと考えることがあり得たとき。私は彼女に何を伝えられるだろう。
 時々考えることがある。彼女の身の上に私と同じ出来事があり得てしまったとき。私は彼女に何を伝えられるだろう。
 答えは、まだ、ない。

 突然、カーテンの向こうから眩しいほどの白い日差しが部屋に差し込む。カーテンを開けてみる。もうずいぶんと西に傾いた太陽が目の前に現れ、私は視界を一瞬奪われる。全ての視界が真っ白に染まる。
 地平線近くを雲が流れている。薄灰色の雲。流れてゆくというよりも、そこに溜まっているというような姿。街中が今、白く染まり、からからに渇いた白色に染まり、ようやく視力の戻った目で、私はただそれを眺めている。

 答えはきっと、永遠に出ない。その場に立たされたとき、私がどう行動するだろうかというそのことは、想像できるけれども、正解なんてものは、きっと、何処にもないんだろう。
 うろたえることなく、惑うこともなく、ただまっすぐに、そんな彼女を受け止めて、受け止めることがもしできたなら、おのずと答えは出てくるだろうし、私はおのずと行為するだろう。その時に、きっと。

 冬風がまた大きく街を横切ってゆく。私はカーテンを閉める。カーテンはもちろん風に揺れ、窓の外にふわりふわりと泳いでゆく。そんな窓の隣で、私は文字を記してゆく。台所では薬缶から湯気がしゅんしゅんと音を立てている。濃い紅茶でもいれようか。私はノートを閉じて、お気に入りのコップに手を伸ばす。
 それは多分、何処にでもあるだろう、毎日の風景。私はそんな平凡な毎日を、多分とても、愛している。


遠藤みちる HOMEMAIL

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