2005年02月08日(火) |
朝から小さな雨が降る。しとしとしと。しとしとしと。小さな小さな雨が降る。ささらささら。ささささら。 娘の小さな手を握って歩き出す。二人とも片手には傘を持って。行き交う人の殆どはもう傘を開いているのだけれども、それは分かっているのだけれども、娘と二人、傘をささずにてくてく歩く。ママ、これは雪にはならないの? うん、雪にはなりそうにないねぇ。雪になればいいのに、そしたら雪だるま作れるのに。そうだよねぇ、雪にならないかなぁ。空に顔を向けて歩く私たちは、次々後ろから来る人たちに追い抜かれてゆく。それでも二人とも、まだ空を見上げている。この頬を撫でる小さな雨が、小さな雪に変わるといいななんて願いながら。
「先生、突然変なこと言い出すようですけど、私、お風呂に入るのが恐くなってしまいました」 「あら」 「お風呂に入るでしょう? 水面を見ると、びっしりと垢が浮かんでいるように見える、しかもそれはあの加害者の垢なんです」 「…」 「多分目の錯覚だって自分に何度も言い聞かせるんですけれども、だって娘も私もちゃんと頭も体も洗っているのだから垢がこんなにびっしり水面を埋め尽くすわけがないって頭では分かるんですけれども、どうやっても私にはそう見えてしまうんです、水面びっしり、加害者の垢で埋まってるんです」 「…」 「その垢が私に触れてくる、もう反吐がでそうなほどいやなんです。気持ち悪いなんて言葉じゃぁ収まりがつかない。もう絶叫したくなるくらいの恐怖なんです」 「…」 「でも、私はまだしも、育ち盛りの娘にお風呂を我慢させることはできないし、そもそも娘はお風呂が大好きな子だからお風呂に入れないわけにはいかない。でも、でも、恐ろしいんです、恐怖なんです、おぞましいんです、あんなお湯の中に自分が入る、娘が入る、そのことに耐えられない。毎回お湯を変えても、垢が消えてくれないんです、どうやっても」 「少し前から寝る前の処方を少し変えたでしょう? 眠れるようになった?」 「…少しは眠れると思うんですけれども」 「でも?」 「寝ると必ず夢を見てしまう、夢にも出てくるんです、あの加害者が。しかも、夢の中で私に話しかけてくるんです」 「…」 「始まりはいつも違ってて、そこにはまだあの加害者はいないんです。何かの拍子に私が振り返ると、すぐそこに加害者が立っていて、私を見てるんです」 「最近また何かあった?」 「いえ、思い当たらないんです、別に加害者に関することやあの事件に関わるような何かが最近あったとは思い当たらない」 「…」 「思い当たらないけど、夢にもお風呂にも、ふとしたところに加害者がばっと現れるんです」 「…」 「自分でも、いやになります。いい加減、自分も疲れてるなって思う」 「自分で疲れてるって感じるの?」 「はい、疲れてるなって思う。疲れてるから休みたいとも思う。でも、休めないんです」 「…」 「休もうと思っても体が言うことをきかない。何かしら理由をくっつけて、とにもかくにも動き回っていないとだめな気がする」 「ひたすら動いてしまうのね」 「はい。で、場面場面で、へらへら笑ってる自分がいる」 「なんだかそんな感じがするわね」 「はい。自分でももうそういうのにも嫌気がさしてるんです、でも、どんどんちぐはぐになっていく」 「…。今はとにかく、一週間一週間生き延びること考えて頂戴ね。それ以外、考えなくてもいいから」 「どうしてこんなふうになっているんでしょう、全然分からない」 「…何かが引き金になってひどく混乱しているのか、それとも、思い出しても大丈夫な何かがあなたの中にできてきて、だからあれやこれやと事件に関わることを思い出してしまっているのか…」 「思い出しても大丈夫な何か…?」 「そういう可能性もあるかもしれないわね。まだ分からないけれども…」 「…」 「ともかくも生き延びること。他のことは考えなくてもいいから」 「…はい」 「生き延びて、来週もまた会いましょう」 「…はい」
思い出しても大丈夫な何か。それは何だろう。砦みたいなものだろうか。それとも、別に何の障壁もない、けれど頑強な大地のようなものだろうか。私にはまだ分からない。そもそも、そんなものはまだ私の中には皆無で、ただ単に混乱している、或いは私の記憶の奥に実は引き金となった出来事は隠れてしまっていて、そのためにこんなふうに加害者の姿をあらゆる場面で思い出してしまうのか、定かなことは何もない。 帰りのホームに立つ。しばらく待っても電車が来ない。電光掲示板を見上げると、人身事故によりダイヤが乱れています、という表示。人身事故。それは事故なのだろうか、それとも自殺なのだろうか。ふとそんなことを考える。昔、私の肩にぶつかりながら線路に身を投げた友人の後姿が、私の脳裏を過ってゆく。人身事故というその言葉は日常に溢れているはずなのに、私はその言葉にいちいちこうやって立ち止まってしまう。そんな自分が頼りなくて、私は小さく溜息をつく。そして直後、小さく苦笑する。分かってる、こんなふうであっても私は生き延びることを選んでいる。溜息をついても何をしても、私は最後必ず、生き延びることを選ぶのだ。それが今の私なのだ、と。
雨。雨。小さな雨。降り続くその気配を窓の外に感じながら、指を動かし目を動かし、仕事を済ましてゆく。この分ならきっと、今日中に終わる筈。 |
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