見つめる日々

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2005年02月22日(火) 
 目を覚ましたらいつもより明るい窓の外。慌てて時計を確かめると、いつも起きる時間より一時間も寝過ごしていた。急いで娘に着替えをさせ、ご飯を食べさせる。出発、という掛け声と共に自転車を漕ぐ。もう慣れた坂道をのぼる。娘は後ろで、ママ頑張れー、と掛け声をかけてくれる。すれ違う通行人のみんながくすくす笑っているような気がして、私はちょっと恥ずかしい。
 天気予報で今日は寒くなると言っていたはずなのに、日差しはとてもあたたかく風もゆるい。駆け込んだ車両の隅の席が空いており、私はそこに座る。幾つものビルの群れを抜け川を越え、いつのまにか私は眠ってしまう。眠りの中で、幾つもの場面がフラッシュバックする。眩暈を覚えて慌ててトイレに駆け込む。私の隣で手を洗うのは制服を着た小さな女の子。目があったので微笑むと、彼女も向日葵のような笑顔を返してくれる。それだけのことなのだけれども、なんだか心がほっとして、体の強張りが少し緩む。
 用事を済ませた帰り道。家に最寄の駅を越え、しばらく前から行こうと思っていた場所へ向かう。駅から歩いて程なくして、川沿いにずらりと建ち並ぶ小屋が見えてくる。その入り口辺りに立つのは警察官。私はそれを避けて、川の向こう側へと渡る。そして川沿いに備えられた手すりに寄りかかり、川の向こうをじっと眺める。
 今年に入って警察がこの一帯を一掃するために動き出した。ここは、性を売る女性たちが集う場所。その殆どが外国人女性、特に不法滞在の外国人女性たちで占められている。川沿いに立ち並ぶ小屋の中には必ず女性が待っている。男性の姿を見つけると、朝だろうと昼だろうとやわらかい白い手が手招きする。胸の谷間を露にし、量感のある太腿を見せつけるぴったりした短い服をまとった彼女たちは、何とも言えぬ笑みを浮かべ、客を探し続ける。小屋から彼女たちが出てくることは全くといっていいほどあり得ない。彼女はその入り口に立って手招きするだけ。そして男性は、その入り口に呑み込まれてゆく。
 突然、右方向から罵声が響く。警察が昼夜を問わず立つようになったおかげで商売あがったりの彼女たちが、必死の抵抗を試みる。けれど、捕まれば、彼女たちはこの場所に居ることさえもできなくなる。耳をつんざくような悲鳴が私の耳に突き刺さる。これ以上見ているのが憚られて、私は扉をぴったり閉めた小屋の群れの方に視線を泳がす。
 女性たちやその女性を動かす奴らも必死なら、警察も必死だ。今までも何度かこの場所に手入れは入っていたけれども、こんなにも真剣に警察が動くのは、多分私が知る限りで初めてのことだ。本気で一掃しようとしているのだなということがこちらにも伝わって来る。でも。
 本当に、ここを一掃すればそれで事が解決するのだろうか。
 確かに。この辺りの風紀が良いものだなんてことは冗談でも言えない。けれど、そういったものたちが共存して、この街はここまで育ってきた。この場所は、或る意味、必要な場所と言っても過言ではなかった。女が女の性を売り、男は暴発しそうな或いは鬱屈した日々の欲望をここで吐き捨てる。ここはそんなふうに、男の欲望と女の事情とが、金を間にして均衡を保っている場所でもあった。
 もしこの場所を駆除したとして。ここで消費されていた男の欲望は、暴力は、今度は何処に吐き捨てられることになるのだろう。男の欲求が思ってもみないところで暴発する可能性を、誰も考えないのだろうか。私は。私は考えてしまう。その為に、これまであり得ないと信じていた女たちの身の上に、強姦という代物が突然落下する、そういったことは、果たして決してあり得ないと誰が言えるだろう。
 そしてまた、この立ち並ぶ小屋の中には、自分の体を売ったお金で家族を養う女もいるのだ。以前、親しくなった一人の女性からこんなことを聞いた。私の母親より少し若いくらいの女性だった。「私はね、何の才能もないからさ、だから、私が唯一持ってるこの体で稼ぐしかなかったんだよね。この体売って稼いだ金で娘を学校にも行かせたし、塾にも通わせた。もちろんね、娘は私を毛嫌いしてるよ、こんな金いらないなんて生意気言ったりもするさ、でもね、これが現実なんだよ、私のこの体で稼いだ金でここまでやってこれたんだ。私はそれを恥ずかしいなんて思っちゃいないよ。これがあたしの現実なんだ」。私をまっすぐに見、そう言い終えた後で彼女はにっと笑った。あの笑顔、私は今も鮮やかに覚えている。彼女のような事情を抱えた女性たちは、ここがなくなったら、何処へゆくのだろう。何処へゆけばいいのだろう。
 確かに、世間から見ればこういう場所は駆逐されるべき場所なのかもしれない。けれど、こういった場所にも営みがある。生活がある。現実がある。ただ一掃すればそれで全て解決、なんてことは、あり得ない。
 ついこの間まで女が立って手招きしていたはずの小屋の入り口は、ぴたりと閉ざされて、今耳を澄ましても、何の物音も聞こえてはこない。そして向こうには、警官がうろうろしている。彼らに尋ねてみたい。もし今までここに通うことで見ず知らずの女性を強姦しないで済んでたような男たちは、今度は何処へゆくのでしょう、その時、私たちは無事でいられるのでしょうか、そんな私たちをあなた方は、ちゃんと守ってくれるのでしょうか。そしてもうひとつ、ここにいることでようやく成り立っていた誰かの生活は、ここがなくなった後も守られるのでしょうか。
 誰も、答えてはくれない。私は、手すりを掴んでいてすっかり冷たくなった手をこすり合わせながら歩き出す。胸の中に広がる憂鬱を噛み締めながら。そして見上げれば、川沿いの桜の枝々には固い固い芽の気配。この固くつぼまった先が綻ぶ頃、この場所はどうなっているのだろう。枝の向こうに広がる空は、切なくなるほど白い。


遠藤みちる HOMEMAIL

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