2005年03月01日(火) |
夜、ようやく布団に入ってみたものの、どうしても目が冴えて眠れない。ずいぶん長いこと娘の隣で娘の体をそっと抱くように横になってはみたが、私は諦めてもう一度起き上がることにする。 そっと窓を開ける。見上げれば一面に闇色が広がっている。それは決して黒などという一色ではなく、何色も何色も藍を重ね合わせた末に出来あがる濃紫に近い闇の色。私は手すりの上に頬杖をついて、しばらくぼんやり眺める。殆ど風はなく、街灯も街路樹もしんと佇む街景。今見渡せるこの街の何処にも、部屋の明かりは見えない。あるのは街灯の明かりばかり。もうみんな眠っているのだろうか。そう思って耳を澄ます。直後、雄鶏の鳴き声が響き渡る。今夜もまた、彼の鳴き声の時間になってしまった。 どうしてだろう、私は今夜久しぶりに、大叔母のことを思い出していた。もう全身癌に侵されて、生きて再び会うことはないのだろう大叔母。私の記憶の中にある大叔母は、いつもにこにこ笑っていたあの笑顔のままだ。すらりと伸びた立ち姿とあの笑みは、そばにいる人の気持ちをそれだけで和らげる、そんな不思議な魅力を持っていた。耳の中で木霊する大叔母の声。私の名前を呼ぶその大叔母の声は、小川のせせらぎのように澄んでいた。だから私は彼女に名前を呼ばれることが、とても心地よかった。 ある時、初恋を失ってべそをかいていた私の手を握り、風にでも当たろうか、と、部屋から連れ出してくれたのも大叔母だった。そんなに好きだったのねぇ、そう言った大叔母は、やわらかく笑んでいた。私がぽろぽろと涙を流すと、今のうちにいっぱい泣いてしまいなさいな、と肩を抱いてくれた。心の中をいつも打ち明けていた祖母が危篤状態に陥っていたその頃、確か季節は冬だった。ぽろぽろ涙を零しながら歩く私の手を握る大叔母のその手は、ちょっと皺がかっていたけれどもほんのりあたたかくて、何よりも柔らかかった。 私はふと思いついて、自分の名前を声に出してみる。そして、苦笑する。やっぱり無理だな、と苦笑する。いくら大叔母の真似をして名前を口にしてみても、あの大叔母の声には届かない。 今頃、大叔母はどうしているだろう。病院のベッドの上で何を思っているのだろう。見上げる空が少しずつ夜明けに近づいてゆく。じきにまた太陽は昇り、この街をありありと照らすのだろう。私は何となく、空に手を伸ばす。 と、その時。電話のベルが鳴った。こんな時間に一体誰からだろう。不信に思って私は黙って受話器を取り上げる。一体誰が。私は沈黙して、電話の向こうを窺う。 「Kだけども…」 「あ、お兄ちゃん」 「寝てたか? こんな時間に悪いな」 「あ、平気。起きてたから」 「なんだ、寝なきゃだめじゃないか」 「それより、何? どうしたの?」 「うん…」 「おばちゃんの具合はどう?」 「それなんだが…」 「何かあったの?」 「昨日の夜にな、医者から、今のうちに家族を呼んでおけって言われてな、今俺も病院に着いたんだが…」 「…そう、か」 「ん…」 「あ、うちの実家には電話した?」 「いや、それで電話したんだけど、出ないんだ、留守か?」 「あー、違う、留守じゃない、あのね、うちの親、この時間電話出ないの」 「一応いるのか」 「うん、いるんだけどね、出ないんだ、朝の七時半を過ぎないと電話出ない」 「そうかぁ…」 「その時間になったら、もう一度電話してくれると繋がると思うんだけど…」 「分かった。じゃ、悪かったな、こんな時間に」 「ううん、全然」 「それじゃ、また連絡するよ」 「うん、分かった、それじゃ」 私は、受話器を置いて、しばらく動けなかった。あぁとうとう、そういう時がやってきたのか、という思いが、じわじわと地の底から這い上がって来る、そんな感じだった。 その時、再び電話が鳴った。慌てて受話器を上げる。 「はい」 「あ、私だけど」 「お母さん!どうしたの?」 「いや、今、うちに電話した?」 「あ、私じゃなくて、K兄だよ、K兄」 「あ…」 「あのね、おばちゃんが危ないって。それで母さんのとこにも電話したけど繋がらないからってうちに連絡あったの」 「ああ、やっぱりそうなのね…」 「こんな時間にお母さんが電話なんて、どうしたの、眠れなかったの?」 「いや、眠ってたらね、おばちゃんの夢を見てね…」 「…」 「そうか、分かった」 「あ、お母さん、K兄の携帯電話番号知ってるの?」 「知ってると思うんだけど…」 「いいや、私今番号言うから、メモして」 「あ、いいわ。向こうから連絡が来るのを待つわ」 「どうして?」 「こういう時はね、もうそれだけで大変なのよ。電話なんて本当なら構っていられないくらいに。何かあればきっとまた向こうから電話が来るから。私はここで待ってる」 「…」 「一番辛いのは当然病気の本人だけれど、家族もね、辛いのよ」 「…そうだね。分かった」 「悪かったわね、こんな時間に電話しちゃって」 「あ、こっちは全然構わないから。あ、昼間はちょっと仕事で出てるから、何かあったら携帯に電話してね」 「うん、分かったわ、それじゃあね」 「うん、じゃぁね」
何の偶然だろう。私は大叔母を思い出していて、母は母で大叔母の夢を見ていたという。そして普段なら必ず無視されるはずの電話のベルに母が敏感に反応し、うちに電話をかけてくるなんて、こんなこと、あり得ないはずだった。 でも。 大叔母が、何かを届けに来たのかもしれない。ふと、そんなことを思う。 気がつけば外はもう明るい。私は何となく、人恋しくなって、布団の中にいる娘の体を抱っこしにいく。もぞもぞと布団に潜り込み、娘のあたたかい体をそっと抱いてみる。娘は全く気づかない様子で、すぅすぅと規則正しい寝息をたてている。 ねぇみう、おばちゃんがね、危ないんだって。心の中で言ってみる。 でも、みうはおばちゃんのことなんて、全然覚えてないよね。会ったのはほんのニ回ほど。覚えてなくて当たり前。でも。 あなたが覚えていないということは、私はもう、あなたとおばちゃんの話でお喋りできないってことだよね? そう思ったら、突然喉が苦しくなった。 あぁこうやって、人は去ってゆくのだな、と、思った。 或る意味、世代交代のように。大叔母は刻一刻死に近づき、娘は思いきり生を呼吸する。それは或る意味、とても自然なこと。自然な成り行き。 私もやがて、死んでゆくんだ。
あれもしたかった、これもしたかった、大叔母ともっとこんな話もしたかった。そうやって考え出したらきりがない。多分、何処までも際限なく続く。 だから、私はそう考える心の扉をぴたっと閉める。これはできなかったかもしれないけど、あれは一緒にできたよね、これもできなかったけど、代わりにあれは一緒に笑ったよね。出来なかったことを思い出すのは止めて、一緒に出来たこと、一緒に笑ったことを私は思い出す。ねぇおばちゃん、こんなこともしたよね、あんなこともしたよね。こんなことで怒られたり笑われたり。いろいろやったよね。 おばちゃんの声、おばちゃんの笑顔、ほら、私の中に、こんなに残ってるよ。
何も知らない娘を起こす。おはよう、ほら、朝だよ、起きなさい。娘は大きく伸びをする。朝ご飯を食べながら、着替えながら、私は娘の隣で大叔母のことをあれこれ思い出している。生に溢れた娘の向こう側に、死にゆく大叔母の笑顔がうっすらと重なる。 二十一年前、祖母が亡くなった。その命日に呼ばれるようにして、今、祖母の妹である大叔母がこの世を去ろうとしている。 そして生きている私はここに在て、何も変わらないかのような顔をして、今日を営む。いずれそんな私にも死が迎えにやってくる。それが自然の営み。生を受けた者の務め。
ああ、太陽が、眩しい。 |
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