2005年03月02日(水) |
橙色のカーテンがふんわりと明るく脹らんでいる。さっと引くと、空から淡黄色の日差しが降り注いでいる。いつものように娘と朝の仕度。一通り終わったところに電話のベルが鳴る。少し緊張したような母の声が聞こえて来る。「これから行ってくるわ」。少し間を置いて、私は母に答える。「うん、いってらっしゃい。気をつけて」「それだけなんだけど…」「わかってるよ。いってらっしゃい」。 娘を送ってそのまま私は仕事に出掛ける。そういえば今年は一度も手袋をしなかった。自転車に乗りながらそんなことを思い出す。今も素手で、寒いといえば寒いけれども、指先が凍えるほどではない。そうだ、自転車といえば。 大叔母の家に遊びに行った折、K兄が私と弟を、カゴと荷台とに乗せて自転車であっちこっちにつれていってくれた。家を出るとき大叔母が、三人乗った自転車を見ながら笑って、気をつけてよ、と大きな声を掛けてくれた。私たちは坂を下るたびジェットコースターに乗っているような気持ちになって、大きな声を上げて笑った。日が傾きかけてやっと家に戻ると、大叔母がおやつを用意して待っていてくれたんだった。
手元ではキーボードやマウスを細かく操作しながら、私は心の中で、様々なことを思い出していた。 こんなこともあった。父母の教育方針と、それにどんどん怯え縮こまってゆくばかりの私と弟を救ってくれたのも、大叔母と大叔父だった。大阪から一体何度うちまでやってきてくれたことだろう。私と弟を心配し、一時期など毎週のようにやってきてくれた。父母と激しく口論になることも少なくなかった。そういう親の態度が子供にどんな影響を与えているか、君たちは考えようとしていないじゃないか、と怒鳴った大叔父と大叔母の背中を、私は今もありありと思い出すことができる。それでも横を向き続ける父母に落胆し、大叔母と大叔父は、ごめんな、何にも役に立てないでごめんな、と言って帰ってゆくのだった。あの時、心の中で何度叫んだだろう。おじちゃん、おばちゃん、帰らないで、私たちを連れていって、と。私と弟が、あの家の中でそれから後も長いこと耐えてゆけたのは、そんな大叔母、大叔父の存在があったからだ。父母と分かり合えなくても、大叔母大叔父は私たちのことを分かってくれてる、愛してくれてる、と、その想いが、私たちをどれほど強く支えていてくれたことだったろう。 思い出は尽きることなく、私の中から次々に浮かび上がって来る。自然、口元は緩む。時々目元も緩むから、手にはハンカチを握り締めておく。 「どうかしました?」 「は? いいえ、何も」 「じゃぁ何かいいことあったんですか?」 「え? なんで?」 「だって。さっきから顔が笑ってますよ」 「えーーっ、いやぁそんな、別にいいことがあったわけじゃないんですけど」 PCをいじり続ける私の背中を、仕事先の人が軽く小突いてくる。 本当に、別にいいことがあったわけじゃない。それどころか、大叔母の命の火は今この時にも消えてしまうかもしれない。そんな状況だ。けれど。 大叔母との思い出がこんなにもたくさん、私の中に積もっている、そのことが、私にはとても、嬉しい。
昨夕母と電話した折、母が言った。 「あなたが一緒に行きたいって言う気持ちもわかるけど、でも、私はね、あなたにはもう姉さんに会って欲しくないの」 「…どうして?」 「姉さんのね、あんな姿を、あなたの中に残してしまいたくない。あなたの中には、いつも元気で笑っていたときの姉さんのことだけ、覚えていて欲しいから」 「…」 「姉さんね、この間私と父さんが会いに行ったとき、何度も言ってた。こんな姿、義子に見せたくなかった、って。泣きそうな声で言ってた。私はね、そんなこと全然構わないのにって思ったけど、家に戻ってきてからね、父さんが言ったの。俺は、姉さんのあんな姿、見たくなかった、会うべきじゃなかったって。父さん、よほどショックだったのね」 「…」 「だからね、あなたが今の姉さんに会ったら、あなたの中にはきっと今の姉さんの姿が強く残ってしまうと思うのよ。それがね、いやなの。できるなら、元気なときの、いつもの姉さんのことを、あなたには覚えていて欲しいのよ。きっと姉さんもそう思ってると思うの」 「…」 「だからね、明日、私が一人で行ってくる」 「分かった」 会いたいという気持ちはもちろん私の中に在る。いまだって在る。けれど。何だろう、母がそう望む気持ちも、とてもよく分かる気がするのだ。 タイプを打つ指を止め、私はちょっと席を立つ。部屋を出て、煙草に火をつける。 何人かの友人の死に、かつて私は立ち会った。そんな場面に立ち会うつもりなんてなかった、それどころか、それを止めたくて止めたくて、なんとか彼らに生き延びて欲しくて、私はその場所に駆け付けたはずだった。なのに。 目の前で落ちてきた彼女の体は木っ端微塵になり、私の足元にまで彼女の脳味噌が飛び散った。目の前で線路に飛び込んだ彼女の体は見るも無残にずたずたになり、片付けられた後も耳たぶだけが残っていた、線路の端。そういった、幾つもの友人たちの最期の姿が、ありありとまた私の中に蘇って来る。彼らの死にその都度立ち会い、それからどれだけの間、私はその映像に憑りつかれていたことだろう。彼らのことを、彼らとの楽しい日々を思い出そうと思っても思い出せないのだ。その映像があまりに鮮やかに浮かび上がってきて邪魔をするから。長い時間を経て、私はようやく、彼らの死の映像から抜け出すことができて、今では彼らとの楽しい記憶をぱっと思い出すことができる。こんなこともあった、あんなこともあった、私が死んであの世で再会するときは、思い出話に花を咲かせようね、と、そんなふうに心の中で語り掛けることもできる。けれど。 そうなるまでに、長い時間がかかった。 そのことを思うと、母の気持ちが伝わるのだ。今の大叔母の姿を私に見て欲しくないというその気持ちが。大叔母がどう思っているかは私には分からないけれども、もしかしたら大叔母にしてきてもらったことを考えたら私は今すぐにでもここを発って大叔母のそばに駆けつけるべきなのかもしれないけれども。それでも。 私の中には、元気なときの大叔母の姿だけを残しておいてほしい。 私が母の立場だったら、同じことを言ったかもしれないな、と。
あっという間に時間は過ぎて、私は今日の仕事場を慌しく後にする。自転車を漕ぎながら、家に戻ったらしなければならないことをあれこれ頭に列挙する。 ねぇおばちゃん、おばちゃんに手を繋いでもらってよくあちこち歩いたよね、今はね、その私が娘の手を引いて歩くのよ。笑っちゃうでしょう? 信じられない光景だよね。心の中でそんなことを思う。
大叔母は今、どのあたりを彷徨っているのだろう。 |
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