見つめる日々

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2005年03月06日(日) 
 まるでそれは予め決められていたことのように、雪が降る、雪が、降る。一途に空から舞い降りて来る雪の中、大叔母は眠っている。余計なものは全て排除したような白い景色の中、私たちは大叔母の元に集う。
 真新しいクリーム色の家の周りを、枝葉をすっかり落とした裸の樹々が取り囲んでいる。新しいこの家で、大叔母と大叔父とH兄夫婦はこれから暮らすはずだった。でも、この家が建ち、大叔母はこの家に荷物を運び込んだものの、たった数日しかいることはできなかった。自分の部屋に入ったのはただの一度、あとは、このベッドの上で過ごし、そして、最期の入院をしたのだった。
 今、窓の外、雪は降り続く。この雪のせいか、鳥の姿は何処にもなく、ここに在るのはただひたすら、静寂という厚いヴェール。
 戒名も位牌もない。大叔母と大叔父が選んだのは、この世の名をあの世でも持ち続けること。そして、この名のまま生まれ変わり、再び出会うこと。大叔父は、ベッドに横たわり眠る大叔母の横で淡々とそう話した。再び出会い、再び結ばれるためにも、迷子になったりしないよう、この名前をずっと通そうと二人で決めたのだと。
 葬儀に参加していつも感じるのは、葬儀というのはこの世に遺された人の為にあるものなのだな、というそのことだ。ひとつ屋根の下に集った人々が、みなそれぞれに大叔母の思い出話をしている。大叔母と大叔父が選んだのは家族葬という形で、だからここに集っているのはみな、身内だ。長いこと会っていなかった顔もあれば、折々に顔を合わせている者たちも、今はみな一緒にここに在る。
 ベッドの上横たわる大叔母の傍に座ると、それだけで何だろう、想いが喉元まであっという間にこみ上げてきてしまう。気がつけばほろほろと、涙が零れてしまう。どうにかして涙を止めたいと思うのだけれども、止める術がみつからない。いや、止めようがない。ここに座る、大叔母と向き合う、ただそれだけでもう、私は否応なく知らされるのだ。大叔母と私との間に深い深い川が流れていることを。生と死とを隔てる深い深い細い川が。それはとても細いのに、とてつもなく深く深く、決して今ここを私が渡ることはできない、そんな川が。
 話したいことは山ほどある。山ほど在る、はずなのだけれども、私はもう何も言えない。言葉にならない。ただひとこと、おばちゃん、と、声にするのが精一杯なのだ。もうその呼び名しか、声にならない。
 私がぽろぽろと涙を零し、声もなく座っているところに、娘がやってきた。ママ泣いてるの? …うん、おばちゃんが死んじゃったからね、そのことを思って悲しくなったの。娘はさっき大叔父から教えてもらったとおり、お線香を立て、手を合わせる。ママ、どうしておばちゃんはお顔隠してるの? うん、死んじゃったからだよ。みう、おばちゃんの顔見たい。…じゃ、見てごらん、その白いハンカチを持ち上げるんだよ。娘は言われた通り、そっとハンカチを持ち上げる。
 そこに在るのは、透き通るような大叔母の顔。十数年前の祖母の死に顔とあまりにそれは似通っていて、私はそれだけで喉が詰まる。ママ、おばちゃん、透き通ってるね。そうだね、きれいだね、これからお化粧もするんだよ。お化粧するの? うん、きれいにするんだよ。
 そうだ、私は泣いてばかりいられない。ここにくる前に決めたのだ。大叔母の死を娘にしっかり見せること。彼女が人の死をちゃんと受け容れられるように導くこと。大叔母の死に顔を見た瞬間、それを思い出す。そうだ、おばちゃん、私はしっかりしなくちゃいけないね、おばちゃんの死を私はちゃんと娘に教えるよ。ハンカチを元に戻し、私は背筋を伸ばす。みう、いつかね、ママもばぁばもみうも、みんなこうやって死んでゆくんだよ。生きてる人はみんな、いつか死ぬの。娘は黙って私の言葉を聞いている。だからね、ちゃんとお見送りしようね、おばちゃんがちゃんと死んでゆけるように。それが、ここに今も生きてるママやみうの務めなんだよ。務め? うーんとね、役目ってこと。うん、わかった。
 やがて死化粧や死に装束を施され、納棺の儀を済ませられた大叔母は、さらに透明度を増した表情で棺の中に横たわる。娘は、誰に教えられたわけでもないのに、お線香が絶えそうになるとさっと次を立てにゆく。誰かが思い出に声を詰まらせると、その人の傍にいってにこっと笑ってみせる。今ここに集う人々の中で一番幼い娘は、その人たちから見たら多分、一番天使に近い存在なのだろう。娘ににこっとされた人はみな涙を拭い、娘を抱き上げて、思い出話の続きを話し始める。その頃にはみんな、思い出のいとおしさから生まれる笑みを、顔一面に浮かべている。
 その間にも、花が次々に届く。花が大好きだった大叔母は、あっという間に花々に囲まれてゆく。今花の中央に飾られている大叔母の写真は、少し浮腫んだ顔をして帽子を被っている。長いこと病を患った大叔母は、途中髪の毛が全て抜けてしまったことがあった、その頃から、大叔母は常に帽子を被るようになった。あまりに長いこと闘病生活を続けていたので、いざアルバムをめくってみても、帽子を被っていない写真は全くといっていいほど無くて、結局この写真になったのだという。
 棺に収まった大叔母の顔を、兄たちがかわるがわるやってきては両手で包んでゆく。その姿を見つめていた娘が、兄たちを真似て大叔母の頬や額に手を乗せる。乗せてしばらくして娘が私を振り返る。小走りに私のところへやってきて、私の耳に囁く。ママ、おばちゃん、冷たいよ。そうだよ、人は死んでしまうと冷たくなるの。だから、今ママの手やみうの手があったかいのは生きているからなんだよ。…ふぅん。そして娘はもう一度大叔母の傍らに行き、すっかり削げた大叔母の頬に、そっと手を添える。そうして大叔母に手を合わせる娘の姿を、私はじっと、見守っている。

 娘を寝かしつけようと娘の傍らに私が横になると、娘が尋ねてくる。ママ、おばちゃんはこの後どうなるの? うんとね、明日みんなで火葬場っていうところに行ってね、そこでおばちゃんは焼かれて骨だけになるの、それをみんなで拾うんだよ。骨だけになっちゃうの? うん、そうだね。体はもうなくなっちゃうの。おばちゃんは何処にいっちゃうの? おばちゃんの魂はあの世にいくの。あの世って何? 死んだ人が住む世界。ママとみうは今何処にいるの? 生きている人が住む世界。…ママ、おばちゃんかわいそうだよ。みう、やだ、ママもばぁばもみんな死んじゃうの? いつかね。いつかみんな死んじゃうよ。それが自然なことなの。ママも死んじゃうの? いつかそういう日がきたらね。ばぁばも? うん、そう。だからね、みう、今生きてるってことを大事にしようね。
 夜中、娘の泣き声がしてそばに飛んでゆくと、娘は私の首に抱きついてきた。ママ、やだよ、やだよー。死んじゃうのやだよー。そう言って泣いている。だから彼女を抱きしめながら言う。大丈夫だよ、ママはちゃんと生きてるでしょう? でもいつか死んじゃうんでしょ? うん、いつかね。でも今は死なないよ。みうのそばにちゃんといるでしょ? みう、ひとりぼっちになっちゃうのやだよー。うん、大丈夫、ママが今ここにいるでしょ? わーん。ずっと一緒じゃなきゃやだ。やだよー。
 私がいくら言葉で説明したって足りないことは覚悟の上だ。多分娘は、じぃじとばぁばにも尋ねるだろう。じぃじとばぁばに尋ねたなら、じぃじとばぁばはきっと、孫を思いやってやさしい言葉をかけてくれるに違いない。でももしその直後、事故か何かでじぃじやばぁばが死んでしまったら。その時彼女は何と思ってしまうだろう。死なないって言ったのにどうしてじぃじやばぁばは死んじゃったの、と、余計に納得がいかなくて、彼らの死を受け容れることなどできなくなってしまうに違いない。だから私は繰り返す。容赦なく繰り返す。誰もがみな、いつかは死ぬんだよ、と。五歳になったばかりの子供に、それは酷な現実だと知りつつも。
 ようやく再び眠りに落ちた娘の体を私は布団に横たえる。お姉さん、と後ろから声がかかる。振り返ると、はとこの一人がそこにいる。みうちゃんの横に寝ることになってるんだ、僕。あらまぁ。寝返りとかうったら潰れちゃうよねぇ? わはははは。いいよいいよ、気にしないで。それよりみうに蹴飛ばされないように。いや、こっちは大丈夫。それにしても今日は災難だね、みうと一緒にお風呂に入らされた上に隣に寝るなんて。いや、歳の離れた妹が出来たみたいで、妹ってこんな感じなのかなーって…。わはははは、よろしくね。

 夜中を過ぎても雪は降り続ける。しんしんとしんしんと降り続ける。もしかしたらもうこのまま雪は止まないのではないかと思うくらい、ただひたすらに降り続く。この家の周りには、街灯のひとつさえ見当たらない。周囲から切り離された空間で、ここに集う皆が同じ空気を吸っている。大叔母の死という同じただひとつのことを胸に抱き、集っている。
 酔っ払った人、話し疲れ居眠りをする人、思い出をひたすら話し続ける人、みなそれぞれに、この夜を過ごす。明日になったら大叔母はその姿形を失い骨になってしまう。その前に、大叔母の傍らで、大叔母への想いを思いきり吐露してしまいたいと、誰も彼もがそれぞれの形でもって大叔母の死へ想いを馳せている。
 気がつくと私は、人の輪の中にいながらその声がすっかり遠のいたところに座っていた。いや、すぐ右にも左にも実際には人は座っている。人の間に座っていながら、私の鼓膜は現実には閉ざされて、私は自分の内奥にいつのまにか沈み込んでいる。
 内奥に沈みこむと、そこにはもう十数年前に亡くなった祖母の顔があった。だから私は話しかける。ねぇおばあちゃん、おばちゃんがそっちにいくよ、そろそろいくよ。途中まで迎えにきてあげてよ、おばちゃんが道に迷わないように。おばちゃんと思い出話でもしてるうちに、多分今度は私の番になって、私もそっちにいくし。そしたらみんなでいろんな話しよう。だから待ってて。

 翌日。夜明け近くまで降り続いていた雪は嘘のように止み、日差しがさんさんと降り注ぐ。私たちは火葬場へゆく。大叔父と兄たちとが大叔母と最期の対面を済ますと、大叔母の体は、棺は、所定の場所へ運ばれ、そして火が大叔母を包み込む。
 大叔父や兄たちが、もう耐えられないという様子で声を殺して泣いている。すると、私の手を離れ、娘が大叔父や兄たちのところへ駆け寄る。兄が娘に気づいて、兄たちを見上げる娘を抱きとめる。娘もぎゅっと兄たちを抱く。私と母は、その様子を遠く後ろから見守っている。
 大叔母の骨は、思った以上にたくさんあった。私は祖母の骨を思い出す。祖母の骨は今の大叔母の三分の一もなかった。同じ癌という病で亡くなった祖母と大叔母だけれども、同じ癌でも二人、大きく違っていた。そのことを改めて私は思い知る。でも、頭蓋骨には、祖母と同じように、大叔母のものにも赤や紫の染みががあった。その染みが、私の目を射るように突き刺さり、私はつい視線を逸らしてしまう。癌はもう治る病気になったのだと医者が言っていたのを聞いたことがあるけれど、本当にそうなのだろうか。こんなふうに骨に染みを作るほどの病気には変わりないんじゃなかろうか。それともこの染みたちは、彼女らを死に追いこんだ病とは無関係のものなのだろうか。私には、分からない。
 林の中に建つ家に戻り、大叔母の遺骨が花々の間に置かれる。大叔父が深々と頭をさげる。私たちも頭を下げる。順番に大叔母に線香をあげ、そして長い一日がようやく終わる。いや、最期の一日が、もう終わってしまう。
 娘は、骨壷に納められた大叔母を、どんなふうに受け止めたのだろう。もう慣れた手つきで大叔母に線香を上げ手を合わせる娘は、今何を思っているのだろう。私はただじっと、彼女のそうした姿を離れた場所から見つめている。

 ようやく家に戻り、私と娘は早々に横になる。疲れ果てたのだろう、娘はあっという間に寝息を立て始める。私はそんな娘の傍らで、息を潜め、娘をじっと見つめる。通夜から告別式へ、妻であり母であった大叔母を思い涙する大叔父や兄たちの姿、思い出話にふける様々な大人たちの姿、幼い娘の相手をいやがらずに為してくれるはとこたちの姿、娘にはどんなふうに映っただろう。どんなふうに彼女の心に刻まれるだろう。帰り道、娘は母に一生懸命尋ねていた。ねぇばぁば、ばぁばも死んじゃうの? あらやだ、まだまだ死なないわよ、ばぁばは元気でしょう? …うん、でも。大丈夫、ばぁばはまだまだ死なないわよ、みうが大人になってみうの結婚式見るまで、じぃじもばぁばも元気でいなくちゃ。だからね、死なないわよ、大丈夫よ。…うん、そうなんだ。そうよ。ふぅん。
 母は娘とのそのやりとりの後、私の顔をじっと見て言った。本当にこれでよかったのかしら、みうには刺激が強過ぎたんじゃないの? と。そう言った。だから返事をする。そうかもしれない、でも私はこれでよかったと思ってるから。この後は私の仕事だよ、彼女がどう人の死を受け容れてゆくか、幼いなりにもちゃんと受け容れて欲しいと私は思うから。母親のあなたがそこまで言うなら私は何も言わないけど…。大丈夫、心配しないで。…。
 夜中、私は一人目を覚ます。娘は大の字になって眠っている。布団を掛け直し、私はそっと布団から出る。
 そして、窓を細めに開けて、線香に火をつける。煙がするすると窓の外へ、高い空へとのぼってゆく。私はじっと、それを見つめる。

 私はじっと、それを見つめている。


遠藤みちる HOMEMAIL

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