2005年03月07日(月) |
瞬く間に月曜日がやってくる。一体この一週間、私は何をしていたのだろう。ぼんやりした頭を軽く左右に振りながらカーテンを開ける。カーテンを開けるたびに、日に日に太陽が昇る時刻が早くなることを感じる。東からまっすぐに伸びる日差しの手が、昨日はあのあたりまで、今日はもっと奥の街の外れまで届いている。娘を起こし、いつものように朝の仕度。いつものように家を出て、いつものように電車に乗る。大叔母がこの世界からいなくなっても、私の日常はそうやって繰り返されてゆく。積み重なってゆく。 病院に着き、ドアを開ける。待合室にはまだ誰もいない。私はほっとして、肩から荷物を下ろし、それを枕にしてしばらくの間目を閉じる。外界から自分を閉ざして、自分の中にだけ閉じこもる。正直に言うと、この時間が、たとえほんの短い時間であっても、私はとてもほっとする。 名前を呼ばれ、診察室に入る。 「先生、大叔母が亡くなったんです」 「…大変だったわね」 「先生、これでもう、いなくなっちゃいました。親とのこと、話ができる相手、理解してくれる相手が、もうこの世界にはいなくなっちゃった」 「…そうね、しんどくなるね」 「言葉がうまく見つからないんですけど…巧妙でしょう? うちの親と子の関係って。それを理解するのは、他の人には大変だと思う」 「そうね、私もそう思うわ」 「大叔母は私が何も言う前から、理解してくれてた。その人が、いなくなっちゃった」 「…」 「正直、まだ受け止めかねているんだと思います、私。頭の芯がぼーっとしてる」 「それが当たり前よ。何もおかしくなんてないわ」 「…」 「でも、至極冷静に受け止めてる部分もあるんです。その両極に引き裂かれる感じがする。娘に対してとか、第三者がそばにいるときとか。そういうときは気味が悪いほど自分が冷静に対処している。中間が、ないんです。両極にぱっくり割れている、その中間が、皆無なんです」 「…」 「それから、毎晩のように夢を見るんですけど、そこに女の子が出てくるんです、みんな違う顔してて、でもそれは必ず私なんです。そしてその女の子が」 「女の子が?」 「…女の子が、みんな違う顔してるのに全部私で、その女の子は必ず、夢の中で強姦されるんです」 「…」 「加害者はいつだって笑ってる。なんかもう、どうでもよくなってきた、そんな感じです」 「まだまだ緊張状態が続いてるのね」 「緊張してるつもりはないんですけど。よく分かりません」 「そうね」 「それに、たとえば今ここに娘がいたなら、私はきっとしっかり母親になるんです。自分でも呆れるほど、その役目を私は果たそうとする。自分の気持ちは棚上げしてでも、私はきっとそうなる」 「…」 「私がたまらないのは、それが全部、繋がらないことです。欠片ごとに全部あっちこっちに離れて散らばっていて、私が繋がらない、それがしんどいです」 「そうね。でも、不安定になって当たり前の状況だってこと、忘れないでね、そんなことで自分を責めたりしないこと」 「はい…」 「自傷行為したりしてない?」 「あぁ、それなんですけど。したくなるんです、猛烈に。どうしようもなく切り刻みたくなる、これでもかってほど切り刻んでやりたくなる、自分を」 「それだけは止めましょうね、今やったら絶対に止まらなくなるから」 「…」 「いい? 自分を切り刻むことだけはやめて。他は何をしてもいいから。ね?」 「…」 「今またそれをしたら、もう止まらなくなると思うから。だから、それだけはやめて」 「…はい」 「来週また会いましょう、ね?」 「はい」 「何かあったら、いつでも来ていいから、とにかく乗りきりましょう、一週間。ね?」 「…はい」 診察室を出、私はぼうっとする頭を抱えながら、処方箋を受け取る。日差しが眩しい。今空はどんな色をしているのだろう。気になるけれども、顔を上げるのが億劫で、私は下を向いたまま歩き続ける。そんな私の隣を、明るい色のコートを着た女性が、颯爽と通り過ぎる。
仕事場に行かなければと思いながら、私の足は横道にそれる。気がついたらモミジフウの樹の下に座っていた。耳たぶに触れる風の手がほのかにあたたかい。幹によりかかりながら、私は空を見上げてみる。淡黄色の日差しが私の目を射る。咄嗟に瞼を閉じて、私は深呼吸する。耳を澄ますと、樹の傍らを行き交う人の足音が鼓膜を震わせる。 大丈夫。抱え込んでいる不安の大部分は、診察室の中に置いてきた。為そうと思えば、今すぐにでも笑って仕事をこなすことができるだろう。両極に引き裂かれようとどんな残酷な映像を私が抱えていようと、そんなことは関係無く日常は営まれるもの。たとえば今娘が私の隣にいたなら、私は間違いなく、それなりにしっかりと母親を営むのだ。また、今自分が仕事場にいたならば、どうでもいい冗談なんかを誰かとやりとりしながら、仕事をこなしてゆくに違いない。 私はもう一度、モミジフウの樹によりかかりながら、深く深く深呼吸をする。閉じたままの瞼だけれども、瞼を通り越して、明るい光が私の目に届く。大丈夫、どんな状況に陥ろうと、私がこうやって手を伸ばせば、世界はすぐそこにある。私さえ顔を上げてみたならば、空だってきっとこの目で見ることは叶う。私は瞼を暖める日差しも一緒に胸に吸い込んで、樹の根元から立ち上がる。 さぁ、そろそろ行かなければ。日常が私を待っている。 |
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