見つめる日々

DiaryINDEXpastwill HOME


2005年03月08日(火) 
 保育園の入り口、娘とたくさんのキスをして別れる。私は自転車に乗って川沿いを走る。この川沿いには何本もの桜の樹が植わっている。季節になれば水面が埋め尽されるほどの花びらが舞う。少し自転車の速度を落とし、桜の枝々に視線をやる。小さい小さいとんがりだけれども、蕾は確かにそこに在り。あっという間にきっと、桜の季節はやってくる。花びらは日差しを全身に浴びて、ちらちらと揺れるのだ。水面もきっと、花びらに合わせて光を揺らがせ、ちらちらと流れるのだ。もうじきその季節。
 うまく寝つけなかったこともあって、昨夜は夜明け近くまでタイプを打っていた。走り書きのような書類とにらめっこしながら、当てはまるだろう言葉を記憶から引っ張り出して仕上げる。それだけのことなのだけれども、その走り書きのような字は見事に歪んでおり、正確に読み取るのには神経を使う。毎度のことながら、もう少しきれいな字を書いてもらえないものだろうかなんて、文句のひとつも言いたくなってしまう。そのせいにしてはいけないと思いつつ、仕事場でついうとうとしてしまう。かくんと首が落ちて私は目を覚まし、慌てて手を動かす。
 早めに家に戻り、プランターに水をやる。今アネモネのプランターに水をやるのがとても楽しい。毎日のように茂った葉をそっと分けて、根元をじっと観察する。また今日も新しく蕾が土から頭を持ち上げている。何色の花が咲くのだろう。どんなふうに風に揺れるのだろう。想像するだけで胸がどきどきする。
 薔薇の樹からは紅く固い芽が次々現れ出ている。まだしぶとく枝にくっついている古い葉々を撫でると、とても固い感触が指に伝わる。固くて乾いた感触。もうじき君たちの役目も終わるんだね、撫でながら話しかける。そして君たちの後には、やわらかい葉が次々現れるんだ。
 ミヤマホタルカヅラは、根元の方がまた木質化してきている。もう少しあたたかくなったら、また挿し木をして増やそう。手間隙かけても、大きな花が咲くわけではない。とても小さな、けれど深い深い藍色の花をつけるミヤマホタルカヅラ。私はその色がとても好きだ。じっと見つめていると、深い海を想像させる。いや、海よりももっと透明な何かを、私の心の中に産み出す。そんな色。
 サンダーソニアは今年は芽を出すだろうか。球根を入れっぱなしにしてしまった。もしかしたらもうだめかもしれない。でももしかしたら、もしかしたら今年も、ちょこねんとあのまっすぐな芽を出してくれるかもしれない。多分この辺りだろう土に指で触れてみる。とんとんとん。ノックしてみる。返事はない。一方的に話しかけてみる。生きてたらまた会えるね。会いたいよ。芽、出して欲しいな。
 そうしている間にあっという間に西に傾く太陽。薄い橙色に染まり始める。ベランダの手すりに寄りかかりながら、私は西の空を眺める。太陽を見ていると目の奥がじんじんしてきて、やがて視界が全部ぼやけてゆく。もう目を開けていられなくなって、私は瞼を閉じる。そして思い出す。大叔母は今頃、どの辺りを歩いているのだろう。
 あの世への旅路はずいぶん険しいと聞く。大丈夫だろうか。怪我をしたり迷ったりしていないだろうか。でも、きっと大丈夫。祖母がきっと大叔母を励ましているに違いない。こっちだよと手招きして迷子になんてならないようにしてくれるに違いない。目を閉じた私の心の奥に、大叔母の死に顔がぼんやりと浮かぶ。胸がきゅっと痛くなる。でも。
 そうしてじっとしていると、大叔母の死に顔はゆっくりと薄れてゆき、その後には、元気だった頃の大叔母の顔が浮かぶのだ。さをり、さをり、と私の名を呼んでくれた、あの大叔母の声も一緒に蘇る。耳を澄ませば、すぐ隣で、大叔母が私を呼んでいるような気がする。
 大叔母がいなくなった、そのことに、私はきっといつか慣れてゆく。今はまだ、この空洞をどうしたらいいのかわからないけれども、きっといつか、慣れてゆく。そして、受け容れるのだ。大叔母の死を。
 思うのだが、私より娘の方が、もしかしたらずっと早く、大叔母の死を受け容れてゆくような気がしてならない。大叔母との思い出が私よりも格段に少ないから? いや、それだけじゃぁないだろう。彼女は彼女なりの形で大叔母がいなくなったことによる空洞や大叔母の死を見つめ、彼女なりにそれを昇華しようとしている。いや、昇華しようなんてことをわざわざ意識にのぼらせることなく、ありのままに、そのままに、受け止めているんじゃぁなかろうか。娘の後姿を眺めながら、昨日、そんなことを思った。私よりずっと幼いけれども、彼女はもしかしたら私よりずっと強いのかもしれない。変に言葉に還元してしまう私の方が脆く、なおかつ理屈にばかり頼って実際の行為から遠のいている、そんな気がするのだ。
 言葉って結局何だろう。言葉がなければお互いにお互いの意志を確かめ合うことができない。そういう意味で、言葉は必要なものだ。けれど、言葉でもってそのものを無理に表そうとすれば、そのものは逃げてゆく。言葉などでは決して言い表せない、でもそれを私たちは無理矢理言葉に押し込めようとする。気がつけば、言葉を使う私たちの方が、言葉に振りまわされてしまう、或いは言葉に操られていたり、する。
 辞書がずらりと並ぶ机の棚を、私はぼんやり眺める。こんなにたくさんある辞書にさえ、多分、収まりきらないものがある。そう思うとき、言葉に頼り過ぎてはならないことを、思い知らされる。
 もう一度空を仰ぐ。太陽はもう地平線に沈む直前。一日があっという間に過ぎてゆく。誰かがこの世界から姿を消しても、この世界は続いてゆく。その中にぽつねんと、私も、在る。


遠藤みちる HOMEMAIL

My追加