2005年03月09日(水) |
日が傾くにつれ空を覆う雲が多くなってゆく。この分だと夕日を見ることは叶わないかもしれない。仕事先で眩暈を覚え、早めに家に戻る道々、空を見上げながらそんなことを考えていた。 いつものようにプランターに水をやり、私はテーブルに座る。うちのテーブルはやたらに大きい。大きいものを私があえて選んだ。家族が個室に篭るんじゃなく、このテーブルに集まってあれやこれや為せるようにとそんな理由で。今娘と私しかいないこの家で、この大きさのテーブルはどう考えても大きすぎるけれども、でもだからといって取り換える気持ちにはなれない。大きすぎるけれども、この上で、この下で、娘があれやこれや作業している。それを眺めてぼんやり過ごす時間が、私はとても好きだ。彼女が机の上で作業しているときは、ママに誉めてもらいたい何かを作業しているとき。机の下での作業は、ママには教えてあげない何かを作業するとき。彼女のそんな使い分けに私は気づいてはいるけれども、彼女の前ではあえて何も気づかぬふりをする。 テーブルに座り、私は筒状に丸まった代物を広げる。グラシンだ。本好きの私にはこのグラシンは欠かせない。私にとって本をカバーするものは、グラシン以外に考えられない。これは、大学時代からの癖。 大学時代、小さな出版社でアルバイトをした。翻訳物や詩集を編集発行する出版社で、たった二人できりもりしていた。そこでアルバイトをした折、返品される品々を磨く作業があったのだが、その作業で、汚れたグラシンをはがしては再度きれいなグラシンでカバーするという作業があった。とあるシリーズが、当時はグラシンのカバー付きの装丁だったからだ。汚れたグラシンはあっけなく捨てられる。それを見て、私が社長にこれ欲しいんですがと言ったところ、好きなだけ持ってけ、と言われた。だから私は、持てる限りのグラシンを毎日のように持って帰った。 そのグラシンは山のように私の本棚の前に積まれ、以来、私の本のカバーになっていった。一体何枚持って帰ったのだろうと自分でも呆れるほど、グラシンは山のようにあった。あれから十五年。一枚、一枚、使われ続けたグラシンの山が、先日とうとうなくなった。そして私は、初めてグラシンをお金を出して買った。 今、広げたグラシンは真新しくて、汚れてるところも破けているところもない。新品なのだからそれが当たり前だ。でも、なんだか不思議な気がする。私が長年使い続けてきたグラシンは、本を踏んだ誰かの足跡がついていたり、誰かが本を棚に戻す際にひっかけたのだろう破れ箇所があるのが当たり前だったのだ。こんな、真新しいグラシンなんて、あり得なかった。 私はそおっとそおっと、グラシンを切り分ける。適当な大きさに切っておいた方が使いやすいだろうから切り分けようと思ったのだけれども、定規を当てる指先が緊張してぷるぷる震える。これなら中古のグラシンの方がずっと扱いやすい、なんてことを考えて苦笑する。何度も深呼吸しながら、私はようやく作業を終える。 本屋さんでカバーは必ずしてもらえるけれども、正直私はそれがあまり好きではない。本の中身が見えないからだ。でもグラシンなら、カバーをかけていたってすぐに見て取れる。それが何より心地よい。本棚は、あの本を、と思いついたときに、すぐ探せる、そういう状態にしておきたい。 そして切り分けた後は、ひたすら単純作業だ。本のカバーをグラシンで包み、本に着せる。それだけのことをひたすら繰り返す。山積みになったカバーなしの本に、次々洋服を着せてゆく。私は何にも考えず、ただひたすら、その作業に没頭する。 心が何処かざわめいているとき、さざなみだっているとき、澱んでいるとき、こういった単純作業が一番いい。何も考えず、心を空っぽにして、ただ手だけを動かし続ける。気がつけばあっという間に時間はゆき過ぎて、私の心の中に広がっていた憂鬱という霧が、おのずと消えてゆくのが分かる。 多分、先週から、心が強張っていたんだろう。主治医に言われたとおり、私は体も心もかちかちになるくらいに緊張していたのかもしれない。私は一通りカバーを着せ終えて、あたたかくなった本を、本棚に入れてゆく。本。それは私にとって、かけがえのない存在。この本の中身ももちろんだけれども、この本をこの世界の誰かが作った、誰かが見つけ出して本という形にしてくれて、そうして私の手元に届いた、そのことが、私の気持ちをほっくりさせてくれる。もう二度と私自身が関わることはできない領域だけれども、その領域への恋しさは、いまだに変わることはない。
窓の外、烏が二羽、横切ってゆく。やっぱり今日は夕日が見られなかった。地平線のすぐ上、雲を通して茜色の太陽の半分がうっすらとこちらを見ている。そろそろ娘を迎えに行こう。帰って来たら、何をして遊ぼう。 上着を羽織り、私は部屋を出る。風はまだ少し、冷たい。 |
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