見つめる日々

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2005年03月12日(土) 
 母の庭でかいだ沈丁花の香りが頭の中をぐるぐる回る。沈丁花の香りに押されて梅の花は儚さばかりが漂っていた。樹から離れ木陰に隠れていると、梅の樹にメジロがつがいで飛んでくる。梅の樹の横に置いた鉢植えの金柑を、きょろきょろしながら啄ばんでいる。ヒヨドリがそれを邪魔しに来る。何度も邪魔され、金柑の実の殆どをヒヨドリに横取られ、でもメジロハまだ諦めない。私が足音でヒヨドリを追い払うと、それを待ってましたとばかりに舞い戻ってきて、一生懸命実を啄ばむ。彼らが飛び去った後には、紙のように薄い皮だけがほっこり残っている。
 沈丁花の香りが私の頭の中でぐるぐる回る。止めようと思っても止まらない。ぐるぐるぐるぐる。今日はばぁばの家に泊まると言う娘を置いて、私だけ列車に乗る。実家を出た直後、電話が入る。連続して入った電話の内容に、私は脳天を一突きされる。切れた電話をポケットに押し込んで、ふらふらと歩きながら、私はひとりきり、頭の中で沈丁花。あぁもうだめだ、この衝動を止められない、そう思った瞬間、友人たちの顔が浮かぶ。だめだ、そんなことをしたら彼らにあわせる顔がない。そう思って私は必死に唇を噛む。衝動を抑え込もうと必死に唇を噛む。けど。
 一体どうやってこれを扱ったらいいんだろう。暴発しそうになる衝動を、私はもう抑えかねていた。でも目の前に浮かぶ友の顔。顔。顔。
 思いきって私は電話をかけた。繋がらない電話。あぁもう諦めてしまおうか、暴発するならするままに、放っておこうか。そう思った時、もう一人の友人の顔が浮かぶ。私の中の、必死に制御しようとする部分が、私に電話をかけさせる。すると繋がった電話。私は、全身を包んでいた衝動が、ぐらりと揺れるのを感じる。空席の方が目立つ車内、私は扉にぴったりと体をくっつけ、繋がった電話を握り締める。
 あのね、友達が死んだの。もう一人の友達は手首を切って十七針も縫ったって。今重なるようにして連絡があったの。私もう頭がどうにかなりそうで。必死の思いで友人に私はそう話す。友人はすぐに、私の状態が危ういことを察し、必死に電話を繋いでくれる。列車がトンネルに入れば容易に切れてしまう電波。そのたびに彼女は私に掛け直してくれる。二人とも、私と同じ頃に事件に遭って、それで生き延びてきた友達なの。二人ともそんな状態なのに私だけ今こんなに元気になってる。なんかおかしいよ。おかしすぎるよ。それに、どうして加害者はのうのうと生き延びているのに、被害者だけが今もまだこんなふうに傷つかなきゃいけないの、どうしてなの。もう私、どうにかなりそうだ。必死に声にする私に、彼女はしっかりしろと繰り返す。あなただけが元気になったとかそういうんじゃなくて、あなたはあなた、彼女たちは彼女たちなんだから、そんなことで自分を責めるのはおかしいでしょ、しっかりしなくちゃ。彼女の声が聞こえる。でも私は止められない。ふっとすると、自分をめちゃくちゃにぶった切りたい衝動に駆られるのよ、どうしたらいいのか分からない。どうしてこんな思いばかりしなくちゃならないの。涙が止まらなくて、切れ切れになりながら私が言う。そんな私のどうしようもない言葉に、友人は一生懸命応えてくれる。だめ、そんなのだめ、絶対しちゃだめだよ、あなたはあなた、友達は友達。あなたは必死に頑張ってきたでしょう? ここまで頑張ってきたでしょう? 今自分をずたずたに切り裂いても、何の意味もないよ、そんなことしちゃだめだよ、しっかりして、それにあなたにはみうがいるんだよ、みうが。
 列車の中、私は泣いた。左耳に携帯電話をぴったりとくっつけながら、私は泣いた。友人が必死に私に語り掛けてくれる言葉を聞きながら、私は泣いた。
 悲しいとか辛いとか、そんなんじゃない。私は痛かった。一人の友人が死に、一人の友人が自分の手首をざくざくと切った。それを思うと、体がぎしぎし音を鳴らすほど痛かった。痛くて痛くて、どうしようもなかった。その痛みをぶち壊したくて、私は自分をめちゃくちゃにしてやりたかった。自分を切り刻むことで、私に襲いかかる何かをぶち壊したかった。でも。
 そんなことして何になる。何にもならない。そのことが、私にはいやというほど分かってる。分かってるから、余計に腹が立つ。腸が煮え繰り返って、今ここで絶叫して世界を崩壊させてやりたいくらいに。でも、そんなこと、叶わないのだ。どんなに私が全身で叫んだって、世界は変わらない。状況は変わらない。私が自分を切り刻んだとしたって、そんなもので世界は変わらない。何も変わらない。私の傷が、私の血が、虚しく地を這うだけだ。
 そして何よりも。みうはどうなる? 自分で自分を切り刻む母を目の前にしたら、彼女はどんな思いをするだろう。そんな思いを、今自分が味わっているような思いを、娘にさせていいのか。いいわけがない。いいわけがないんだ。
 私が黙っている間も、友人はゆっくりと、私に話しかけ続けてる。しっかりして、ショックなのは分かる、でも、それだからって自分を傷つけるのは違うよ、それは違うよ、あなたはここまで必死に歩いてきたでしょう? 生き延びてきたでしょう? 無駄にしちゃいけないよ、だめだよ、そんなの。
 受話器の向こう、繰り返される彼女の声に応じるように、私の中の衝動が、少しずつ少しずつ引いてゆく。それは本当に少しずつだけれども、それでも、引いてゆくのが分かる。そして心の中、浮かぶ。今自分がこんなにもショックを受けている、それと同じようなショックを友人や娘に与えていいのか、いいわけがない、そうだ、いいわけがない、私はしっかりしなくっちゃ。負けちゃだめだ、この衝動に負けたらだめだ。
 ありがと、もしかしたら今夜、また似通った衝動に襲われたら、私、電話しちゃうかもしれない、いいかな。いいよ、いつでも電話してきて、遠慮なんかしないでいいから、いつでも電話かけて、待ってるからね。ありがと。
 気づいたら降りる駅に着いていた。私は階段を下り、トイレに入って顔を洗う。泣いて目が赤いけれど、でも大丈夫、大丈夫だ。自分にそう言い聞かす。大丈夫、さぁ早く家に帰ろう。
 急な坂をのぼりながら、私の心の中、死んだ友人と傷ついた友人、そして電話を繋いでくれた友人の顔が交互に浮かぶ。やがて向こうから、娘の顔が近づいてくる。
 ママ。ママ、好き。そう言ってキスをしてくれる娘の顔が。


遠藤みちる HOMEMAIL

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