2005年03月13日(日) |
目を覚まして時計を見たとき、呆然とした。こんなに眠ってしまったのはどのくらいぶりだろう。それでもまだ、体は眠りを欲している、私は、布団にさらに沈み込もうとする体を無理矢理引き剥がして起きあがる。済ませなければならないことがたくさんある。一口パンを齧り、薬を飲む。またパニックでも起こして済ませるべき用事を忘れてしまわないように、一応紙に書いて、冷蔵庫に貼りつけておく。 溜まっていた洗濯物を干しながら、私は足元のプランターを何度も覗き込む。アネモネの葉の群れの中から、二つの蕾が、懸命に伸びてこようとしている。生まれたての頃の蕾の大きさからはだいたい三倍くらいに脹らんで、それでもまだ下を向きながら、茂る葉の高さまで背伸び。どきどきする。わくわくする。何色の花が咲くのだろう。この蕾は何処まで背を伸ばすのだろう。いつ咲くのだろう。その時花は、空を向くのだろうか。 薔薇の樹を覆う夥しい新芽の先が、徐々に徐々に綻びゆく。洗濯物が風に揺れて、薔薇の樹の棘にひっかかる。私はそれを、ひとつひとつ外して、洗濯物と薔薇の樹との距離を作る。 実家から電話が入る。電話に出た娘は「ママ、あのね、床をお掃除して、テーブルもお掃除して、お皿も洗って、きれいにしたら、おやつ食べていいよ」と言う。一体何を言い出すんだかと大笑いする。電話の向こうで両親が笑っている声も聞こえる。あんた、娘に何言われてるのよ、情けない母親ねえ、と電話を代わった母が笑いながら言う。はいはい、情けない母ですよ、私は、と私も言い返す。電話を切った後、おやつ食べていいよって言われても、おやつになるような代物が何もないじゃないの、と気づく。まぁこんなもんだ。私は用事を片付けてゆく。 途中、リストカットした友人からメールが入る。昨日彼女が言った。毎日メールする。あなたが私を忘れちゃっても私はあなたが好きだからメールする、絶対に元気になる、もう信じてもらえないかもしれないけど、私、頑張るから、元気になるから、だから待ってて、と。そんな彼女からのメールは、たった一行、こっちは今日いい天気だよ。だから私は返事を書く。何能天気なこと言ってんだよっ、アタシは昨日ずっと泣いてたから顔がぐしゃぐしゃだよ、まったくよー、誰のせいだと思ってんだよー。返事なんて書いてやんないっ! それだけ書いて、送信する。 ふとお線香に手が伸びる。そうだ、もう一人の友人の為に。私は線香に火をつける。線香からヒバの香りがあっという間に広がる。ちりちりと燃えゆく線香の先を私はしばらくじっと見つめる。まだあなたに、かける言葉は見つからない。そして私は再び立ち上がり、娘に言われたとおり、床磨きを始める。 体を動かすことは、とても大切なことなのだな、と思う。昨夜、自分の手首を切り刻む代わりに私は大根を買い込んで大根をばっさばっさと切り刻んだ。料理をするときのように大根に手を添えて切るわけじゃなく、まな板に横たえた大根に勢いよく包丁を振り下ろすものだから、切れた欠片は部屋のあちこちに飛んでゆく。それでも構わず切り続ける。そうやって何本の大根を切ったんだろう。よく覚えていないけれども、そうして切り刻んで、私は、少し落ち着いてゆく自分を感じた。その後少し横になり、目が覚めたとき、或る友人の言葉を思い出した。踏み台昇降。ちょうどいい、踏み台昇降でもやろうか、そう思って、私はやり始めた。ただひたすら踏み台昇降。いち、に、いち、に…。それだけのこと。でも、気づいたら一時間近く時間は経っており。動きを止めた私の体は、ふわふわしていた。あぁもういいや、いいよ、もういいよ、そんな思いが浮かんだ。何がいいのかそんなことは分からないけれども、でももう、いいや、と、そう思った。 あれほど自分を切り刻んでしまいたかった衝動は、そうして何処かへ消えていった。私の中に残ったのは、友人たちを懐かしむ思いだけだった。 お互いがお互いに事件に遭った、その後で出会い、同じ病名を与えられながらもそれぞれに違う症状にそれぞれが苦しみ、泣いたり笑ったり、時には相手を平手打ちしたこともあったっけ、そんなことも思い出す。そうやって必死になって生き延びて来た。私たちは、生き延びて来た。 友人の一人は命を断ち、友人の一人は手首を切り刻んでしまったものの生き延びて。そして私は。 多分、誰よりもしぶとく、生き残る。 こんなことで負けてなるものかと思う。私は絶対に幸せになってやる。そう思う。泣いたまま、怯えたままで死ぬなんていやだ、絶対にいやだ、思いきり笑って、思いきりの笑顔で死んでやる、そう思う。それが私にできる、復讐。復讐という言葉を用いると聞こえが悪いけれども、でも、それが私にできる、最大の営み。そう信じる。 加害者はのうのうと生き延びて、法によって人権まで守られて、ましてや心の病気などという病名とは無縁に生き延びて、今だって多分、世界の何処かで呼吸している。そんな現実に負けたら、私は多分、死んでも死にきれない。 一方で、被害者はいつまでも小さくなって生きなければならないなんて、そんなのはおかしい。事件の後必死に生き延びて、その間も心の病気と闘って、何度も何度も死と生の間を行き来し。ある者は絶望して自ら命を断つことだってあるというのに。 でも私は、絶対に自分で自分の命を断つことだけは、しない。私は自分の左腕に残る夥しい傷痕をじっと見つめる。そして思う。生き延びてやる。何処までだって生き残ってやる。そして大きな声で思いきり笑ってやる。世界中に響くくらいに、心の底から笑って、この世界を愛しているって言い切ってみせる。 今私を取り囲む、大切な人たちを何処までも信じ愛し、抱きしめながら、私はたとえもしその時泣いていても怒っていても、それでも私は愛しているよと、私を取り囲むこの世界全てを愛していると、歌い続けていたい。 心の内で、私は強く、強く強くそう思う。床を拭きながら、漂ってくるヒバの線香の香りを深く吸い込んで、私は雑巾を持つ手にさらに力をこめる。絶対に、私は負けない。
気がつけば、もう太陽は地平線の向こう、沈んでおり。西の空にほんのりと残る橙色は、徐々に徐々に闇色に溶けてゆく。 そろそろ娘が帰ってくる。帰って来たらもちろん、娘の唇にキス。そして心の中、私の愛する人たち全てへ、くちづけを。 |
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