2005年03月14日(月) |
空は透き通るような勿忘草色。見上げるほど自分まで透明になってゆくような気がする。雲はゆっくりと、時折太陽を隠しながら流れてゆく。その宙に浮かぶ塊とは別に、地平線辺りにぷかぷかと浮かぶ雲は細切れに、綿菓子を散らかしたようにほっこりと浮かぶ。この目に映るすべてが穏やかで、清々しかった。まだ裸のままでいる樹木も、まるで羽が生えたように生き生きと見えた。 いつものように病院へ。分けられるようにしないとね、と言った主治医の言葉が、私の脳裏にぽつんと刻まれている。一体どうやって分けたらいいのだろう。その術が、見当たらない。 この数日で改めて痛感したこと、それは、怒りにしろ憎しみにしろ痛みにしろ、そういった衝動全てが、私の場合、自分に向いてしまうということ。たとえば誰かに対する憤りや悲しみは、最初はあくまで誰かに対して抱いた感情や衝動であるのに、気がつくと、それら全てが、自分への刃に変貌している。だから、そういった衝動を消化しようとすると、私はおのずと、自分を切り刻むという方向へ走ってしまう。 頭の何処かでは分かっているのだ、これは違う、自分に対して向ける類のものではない、と。分かっているのだけども、私はそれらの矛先を外へ向けることができない。自分へ自分へと向かう、その回路しか、私の中に存在しない。でも、そんなふうに不必要に自分を苛んでも、何の益もない。益がないどころか、私の爆発の仕方如何では、私の周囲にいる人たちが私を思ってくれる気持ちを傷つけ、疲弊させかねないのだ。 だからこそ、分けられるようにしないとね。あなたは、あなたが何も悪くないところでまで自分をどんどん追い詰めてしまう、自分を切り刻もうとしてしまう、だから、分けられるようにならないとね。主治医が言う。私も、黙ったまま、頷く。頷くけれど、その術が、わからない。 こういった症状は、PTSDによる症状の一つなのだと、昔、主治医から教えられ、私自身文献でも読んだ。実際、事件後、加害者たちに怒りや憎しみをぶつけておかしくないような状況下でも自分を責めることしかできず、どんどん自分で穴を掘ってゆく、そんな自分をもうさんざん見てきた。そのたび、何とか軌道修正できないものかと自分なりに試みた。試みるけれど、どうしても刃は外へ向いてくれない。意識して向けようと試みても、刃が勝手にぐいっと私へと向き直ってしまうのだ。その力はとんでもなく強く、しかも私の意志なぞとは無関係に働いてしまう。PTSDを抱え込むようになって十年は経った。なのにいまだにその力は、弱まる気配がない。 分けられるようにしないとね。主治医の言葉が頭の中で反響する。自分へ向けるべき刃と、自分へ向けるべきではない刃と、それらを私の中で上手に分ける術は、どこにあるんだろう。どうやったら分けられるのだろう。私には、いまだ、その術が掴めない。
少しずつ傾き始めた太陽。ちょうど雲が漂っている辺りに太陽は隠れ、私はそれを見上げる。視界がじんじんと侵蝕されてゆく。耐えられなくなって私が地平線に視線を落とすと、そこにはいつのまにか新たに生まれた雲塊がどんよりと横たわる。勿忘草色の空が、少しずつその雲に食べられてゆく。気づけば空は、すっかり薄鼠色の雲に覆われ、あんなに美しかった空の色はもう、何処にもない。雨でも降るのだろうか。それとも空の気分だろうか。雲の向こうに小さく小さく白い点。太陽の、痕。その痕さえ消えるかと思った瞬間、雲の僅かな裂け目からまっすぐに落ちてくる陽光。私の目を射ぬくかのように。 そう、どんなに雲が空を覆っても、どんなに空が暗く澱んでも、その向こうには必ず太陽が在る。それは決して、失われることは、ない。 |
|