2005年04月14日(木) |
裏の小学校の周囲の道々は今、桜の花びらですっかり埋まっている。時間になると子供たちが集団登校で歩いてゆくその道。子供らの目は落ちてしまった花びらになど止まる様子はなく、隣の友達と小突きあったり嬌声を上げて走り出したり。けれど、そんな子供らに無残に踏まれながらも花びらは、何処か優しげな匂いを漂わせている。もしかしたら花びらも、子供らと戯れている、そんな気持ちなのかもしれない。幾度踏まれようと、踏まれ続けて捩れてしまおうと、これが己の運命なのだと、花びらは淡々と受け止める。むしろそんなふうに踏まれることを進んで受け容れているようにさえ見える。私は笑い合う子供らと地べたに貼りついた花びらの姿とを、ただじっと、片隅から眺めている。 娘を保育園に送り届けたその足で病院に向かい、手当てをしてもらう。そして私は、長くゆるい坂道を自転車で上る。明るい日差しが街景のあちこちで弾けている。あちこちの家の窓が開け放たれ、ベランダには洗濯物がはためく。誰がその部屋で暮らしているのかなど知りもしないが、でも、開け放たれた窓を眺めていると、やわらかい気持ちになれる。あの部屋にいる誰かもきっと、このやわらかな風を今頃その身に受けて感じているのだろう。名前も顔も何も知らないけれども、今同じようにこの風を感じている、そのことが、何となく嬉しい。そんなふうに感じる自分に、少し笑ってしまうけれども。 丘の上、古い団地が並ぶその壁面に、今、ハナダイコンが咲き誇っている。ついこの間まで土の色一色しかなかったその壁面だけれども、今はハナダイコンの薄紫色や桜草の桃色、そして名も知らぬ雑草たちの萌黄色で埋め尽くされている。誰から何を強いられることもなく、植物はそうして自ずから芽を出し、自ずから花開かせる。彼らはどうやって季節を知るのだろう。土の温み? それとも風の温み? 人間のように時計を持っているわけでもないのに、彼らは自分の季節をちゃんと知っている。自転車を止めて彼らを眺めながらぼんやり立っている私の頬を、風がするりと撫でて過ぎてゆく。 家のベランダ、プランターの中でアネモネは今日も咲き誇っている。少しずつ花は小さくなってゆくものの、いまだ葉の陰に新たな蕾を秘めている。一体いつまで花は続くのだろう。そして薔薇の樹は今、次々に新芽を開かせ、その新しく柔らかい葉は常に風に揺れている。真っ赤だったまだ開かぬうちの芽が、気づけば葉を開き、そして変色してゆく。そしてもう一つ、ミヤマホタルカヅラが今、幾つもの蕾を付け出した。ぷくっと膨れた蕾はまだ緑のまま。この緑がやがて澄んでゆき、そして藍色に染まる。あとどのくらいしたら花開くだろう。今から楽しみでならない。ミヤマホタルカヅラの藍色は、他のどんな花よりも深く澄んでいるのだから。
太陽はやがて西に傾き始める。私は久しぶりに本の続きを読み始める。「手のことば〜聾者の一家族の物語」(ハナ・グリーン著、みすず書房)。まだ半分ほどしか読んでいないが、とても印象深く残っている箇所がある。それは、工場で働く聾者の一人が手に怪我をするという場面だ。ミシンの周囲に血が飛散する。それを見つめながら、聾者は改めて自分たちにとっての手の存在を感じるのだ。聞こえる人が手に怪我をするのと聞こえない人が手に怪我を負うのとではどれほどの差がそこに在るのか。聞こえる者にとって手は便利な道具の一つだろう。負傷すればもちろん不便極まりない。けれど、聞こえない者にとって、手は、ただ便利な道具だけでは済まない、彼らにとって手とは、言葉そのものなのだ。手がなければ誰かと言葉を交わすことさえ失われる。 考えてみれば当たり前である。手話を交わすには手がなくてはならない。そして細かな表現をしようと思ったら、指先まで柔らかく動かさなければならない。でももしその手が指が失われたら。失われるまでに至らなかったとしても、もし指一本でも動かすことができなくなったりしたならば。彼らはそれだけで、言葉の殆どを失ってしまうかもしれないのだ。 その場面を読みながら、私は今更ながら呆然とする。言葉が失われる世界とは、一体どんな世界だろう。耳で声を聞き取ることができないだけではないのだ、自分が誰かに言葉を発する、伝えようとする、それさえもが奪われる。考えただけで私は背筋に悪寒を覚える。 そして私の目は、包帯を巻かれた自分の左腕に吸い寄せられる。こんなふうに自分の腕をざくざく切り刻むことができてしまうのは、私が五体満足で産まれたおかげなのかもしれない。五体満足で産まれることができたから、こんなふうに自分の体を痛めつけることができてしまうのかもしれない。だとしたら、私はなんて傲慢なんだろう。
時間を知らせる電子音で私は我に変える。もう娘を迎えにゆく時刻だ。慌てて仕度をし、家を出る。自転車で坂道を上る。交差点の手前、郵便局の前に、今、ケシの花が咲いている。儚げなその姿。一吹きの風にもくわんと揺れる。 信号が青になり、私はペダルに乗せた足に再び力をこめる。この目、この足、この手、この声。私の体は間違いなく私のもの。そして、恵まれた証の一つ。まだ大切にすることができなくてじたばたすることが殆どだけれども、それでもいつか、この身体を愛し、慈しみ、感謝できる日が来ますよう。祈るように私はそう願う。 さぁあと少し。この坂を下れば娘がそこで待っている。 |
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