2005年09月15日(木) |
娘を迎えに行くには少し早い時間に家を出る。自転車を漕いで私はまず坂道をくだる。保育園まで坂道を下り、のぼり、そしてまた下る。ブレーキが数日前からきぃきぃと鳴る、その音に混じって、辺りの風景が私の耳に目に流れ込んでくる。 いつもの道。いつもの風景。とりたてて新しいものなどこれっぽっちも見当たらないような、平凡な風景。 今日もあそこでは水遣りのおじさんがしゃがみこんで雑草を取っている。毎朝毎夕、この通りの街路樹におじさんは水をやる。大きな大きなバケツをカートに乗せて、その手には使い込んだ如雨露を持って。街路樹に水をやり終えると、彼は自宅の前の道沿いにぎっしり並べたプランターのところにやってくる。そして、ここでもまた雑草を取り終えた後、水をやるのだ。彼が今年植えた朝顔は、紫、青、白、ピンク、まさに色とりどりだった。今その花たちは種に変わり、おじさんの世話する手をいつも待っている。 路線バスが私の横をすり抜ける。スーパーの前のバス停で止まると、その出口からたくさんの人が降りてくる。その殆どが老年の方々で、この辺りがそういった年頃の人たちが多く住む場所であることを私に教える。杖をつく人、背中が丸くなり腰に手を当てて歩く人、それらのどの背中にも、その人その人ひとりずつの年月が背負われている。ひとりひとりの歴史が、時間の堆積が、沈黙の音色を奏でている。 坂を上りながらふと空を見やると、半月がぽっかりと南の空に浮かんでいる。白く白く澄んだ薄い月。じきに空が黄昏れば、ほんのりと黄みを帯びて輝き始めるのだろう。そう、いつものように。 坂の頂に建つ不動産屋の前には、今日も猫たちが集まっている。不動産屋のおじさんが餌を持ってきてくれるのを待っているのだ。そして、食後には、おじさんの手でくりくりと頭を撫でられる。これもまた、いつもの夕暮れの風景。 保育園で娘を受け取り、今度は二人乗り。まっすぐ大通りを走ってももちろん埋立地に繋がっている。けど、私達はいつも裏道を通る。途中の小学校の周辺の通りには、必ず二、三匹の猫が姿を現す。今日は白と黒と黒。大きくあくびをしてみせる者、身体をぐいっと伸ばしている者、道路の真ん中に目を閉じてじっとお座りをしている者。私達はその一匹一匹に挨拶しながら自転車を走らせる。 「あ、さやかちゃんだ! さやかちゃーん!」 娘が大きな声を上げる。保育園で同じクラスのお友達だ。さやかちゃんと弟はお父さんの手を握りながら、みうの声に大きく手を振ってくれる。私もみうも、大きく手を振り返す。また明日遊ぼうねぇ! さやかちゃんとみうの声が、大きく通りに響き渡る。 「ねぇママ」 「なぁに?」 「さやかちゃん、いいなぁ」 「何で?」 「だって、お父さんと手繋いでるんだもん」 「そうねぇ、いいねぇ」 「お父さん、みうにもいればいいのにな」 「あら、ママと二人じゃいや?」 「いいよ、ママと二人で。でもね、お父さんいる方が、楽チンだよ」 「なんで?」 「だって、お父さんは力持ちでしょ、大きな荷物とか持てるんだよ」 「なるほどぉ。じゃぁ、ママが男の人だったらよかった?」 「やだっ。ママはママで女の人がいい」 「ははは。でも、女のママじゃぁ持ちきれないものもあるもんなぁ」 「そうでしょ? だからね、パパがいればよかったなって思うの」 「でもねぇ、いなくなっちゃったからねぇ、どうしたらいいかねぇ」 「うーん、でもいいや、やっぱり。ママがいればいい」 「ははは。パパいない分、ママが頑張るから、それでいい?」 「うん、それで、みうが早く大きくなって、ママのお手伝いできるようになるよ」 「今でも充分お手伝いしてくれるじゃん、いいの、ゆっくり大人になれば」 「みうが大きくなったらお金いっぱいにして、ママにプレゼントあげるね」 「おおー、玉の輿かい。いい男ゲットしてね」 「ゲットって何?」 「あ、素敵な男の人とめぐり会ってね、って意味」 「みうね、ブラックジャックがいいの!」 「へっ?! あ…ま、それもいいかも」 「あっちょんぶりけー!」 「ははは」 大きな交差点、信号機がぐわんぐわんと揺れている。そういえば今日一日ずっと風が強い。窓を開け放して仕事をしていたら、テーブルの上に重ねておいたあらゆるものが風のせいで玄関の方へと飛んでしまっていたっけ。私は今私の身体をぐいぐい押してくる風に向かってペダルを漕ぐ。本当はちょっとしんどいのだけれどもそれは隠して、このくらいどうってことない、そんな顔をして。みうが私の腰に後席から抱きついてくる。その細く小さな腕をぺしぺしと片手で触りながら、私は自転車を漕ぎ続ける。 そうして辿り着いた埋立地の一角で、私達は久しぶりに外食をする。食事をし終えて外に出ると、もうすっかり辺りは闇色。うわぁどうしてもうこんなに真っ暗になってるの? これからはね、夜になるのがどんどん早くなるよ。どうして? 秋になるから。冬になったらどうなるの? 冬になるともっと夜が早くなる。ふーん。
翌日の今日、風は昨日よりは弱くなったものの、朝からずっと吹いている。半分開けた窓からは、止むことなく風が流れ込み、時折その風が、枯葉を部屋の中へと運んでくる。私はそれを見つけるたび指でつまみ上げ、しばらく見つめてからゴミ箱に入れる。そんなんだから、部屋の中は何度掃除したって何かしらの屑が転がっている。網戸がないと掃除の数が増えるということを、この部屋に住んで初めて知った。でも、ものぐさな私は、どうせまたゴミが流れ込んでくるのだからと、夕方一回、多いときでも昼と夕一回ずつしか掃除機をかけないのだけれども。 ふと思い出す。展覧会の準備が全くできていない。これじゃぁ今年催すはずだった展覧会は無理かもしれない。私は煙草に火をつける。 何かをしようと思うのに、そこに辿り着くだけのエネルギーがない。朝起きて娘を送り出して仕事をし、そして娘を迎えにゆく、その一日一日を過ごし切るのに、実は精一杯だったりする。夜、娘を寝かしつけてから、せめて何かひとつでも自分の為だけに為そうと思うのだけれども、思うだけで全くそこに手が届かない。闇の中、自分の腕を切らないで過ごすだけで、もう全てのエネルギーが消えてゆく。こんなんじゃどうしようもない、そう思うのだけれども、体が動かない。そうして葛藤している間に、夜は過ぎてゆく。そして私は今夜もまた、娘の隣でじっと、横になるのだろう。 焦っても何にもならない。そうやって自分を宥めるのだけれども、自分に対しての赦せなさ、情けなさが一日一日積もってゆく。うずたかく積もったそれらがやがて自己嫌悪に変わり、私にため息をつかせる。いくら嫌悪したって、自分はこの自分以外にあり得ないのに。
今、窓の外に広がる空には一面雲が浮いている。街路樹の葉々は風で裏返しになり、ぴらぴらと揺れる。ぽつりぽつり通りを往く人影。私は少しだけ、目を閉じて風に耳を澄まし、日差しの下しゃがみこむ。じっと。ただじっと。
さぁ、いつまでもこうしていたって何も状況は変わらない。せめて娘を迎えに行くまでの残りの時間、ひとつでも多く仕事を為そう。今日もまだ写真に手をつけられるほどエネルギーはないけれど、でもいつかまた、手を伸ばせるかもしれない。いや、必ずまた手を伸ばす。そう信じて。
一掴みの風がぶるんと私の髪を揺らす。風はもう、秋。 |
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