見つめる日々

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2005年10月07日(金) 
 裏の小学校の校庭に、色とりどりの国旗が翻る。運動会のリハーサルを毎日のように重ねる子供たちの声で、辺りは賑わう。運動会当日、そんな子供たちの姿を、親はそれぞれに目を細めて見つめるのだろう。手に手にカメラを抱えて。
 うちの娘も、今、組体操やら鼓笛隊やらのリハーサルで忙しい。毎日毎日練習をしているようだ。今年で保育園の運動会は最後になる。天気予報では、運動会に当てられた週末の日は雨模様と告げている。雨天の場合中止になってしまう運動会。私は娘に隠れて、こっそり照る照る坊主を作る。彼女たちの毎日の練習が報われますように。心の中でそう祈りながら。
 そんなこんなで毎日は忙しく過ぎてゆく。街路樹が湛える葉々のうち、色づいたものがいち早く散り落ちてゆく。通りを歩けば、風に吹かれてアスファルトを滑る枯葉が、かさこそと立てる音が耳に響く。
 モミジフウの樹には、今年もあの実がぶらさがる。病院の帰り道、何気なく美術館の裏の広場へ足を向けると、遠目からも分かるほど、ぶらんぶらんと実が風に揺れているのが見てとれる。私はそれを見つめるだけで、心がほぐれてゆくのを感じる。あの実はまるでかつての私のようだ。ぶらんぶらんと、右に左に揺れて、何処にも定まる場所を持てない、そんなかつての私のようだ、と。
 じゃぁ今は違うのかと問われれば、まだまだだとしか私は答えられないだろう。それでも、娘がここに在ることが、この世に在るということが、私の背中をばしんと叩く。そんなだらしない背中を見せて情けなくないのかという声が、私の心の中で木霊する。だから私は、這いずってでも、何とか立ってみせようと試みる。
 昔はそんな自分が、さらに情けなく、嫌悪せずにはいられなかった。でも、それはそれでいいんだ、と、最近は思う。結果的に彼女が見つめる私の背中が、しゃんと立っていれば、その過程はどうでもいいかな、と。
 そう思うとき、自分の幼さが露呈されて苦笑せずにはいられなくなる。あぁ私は、努力していることまで報われたいと思っていたのだな、と、そのことを思い知らされるからだ。自分はこんなにも努力しているのだ、だから分かってくれ、と、そんなことを常に願っていたのかもしれない。でも。
 努力していることを認めてもらったからとて、結局自分がしゃんとできなければ、多分私は自分を嫌悪する。そのことが分かってから、少し、楽になった。どんな泥だらけの努力を費やそうと、そんなもん自分の中に留めておくだけで充分だと、そう思うことができるようになったから。そうして気が楽になった分、娘に笑顔を向ける余裕ができた。そんな気がする。

 先日、この部屋の更新手続きの書類がポストに届いていた。受け取ってはじめて、あれからもう二年が過ぎたことを私は知った。この部屋で娘と暮らし始めて二年。長かったような短かったような、摩訶不思議な時間がそこには在る。この部屋の契約を更新するということは、余程のことがない限りこれからまた二年ここに住むということ。二年後、私たちは一体どんな暮らしをしているのだろう。分からない。皆目検討がつかない。そもそも、そのとき私たちはここに在るのだろうか。そもそも私はまだ、ここで過ごしたこれまでの時間が二年という時間に相当するということに、実感が持てないというのが正直なところだ。
 娘を起こさぬよう布団から身体を滑らせて起き上がる。窓を開け外を見やる。見上げる空に月は見えぬ。昼間吹き付ける風も、今は眠り時なのだろうか、さやさやと時折街路樹の葉を揺らす程度にしかそよがない。
 じきに紅葉の季節が訪れる。その頃には多分、私は展覧会でてんてこ舞いの状況にあるんだろう。今は産みの苦しみとでもいうべきか。
 ふと、空に手を伸ばす。私の手は何も掴めないで宙を漂う。そんな私の腕を、微風がしずかに滑ってゆく。


遠藤みちる HOMEMAIL

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