見つめる日々

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2005年11月01日(火) 
 病院の日。自転車を漕いでいる私の服から、じわじわと浸み込んでくる冷気。間違いなく季節は冬へ冬へと進んでいる。朝の陽光の色にも変化が見られる。乗り込んだ電車には修学旅行生らが目をくるくる動かしながらひしめいている。私は、唯一空いていた隅っこの席に座る。彼女らはこれから何処へゆくのだろう。この街の何処を歩くのだろう。懐かしい紺色の制服姿が、やけに眩しく見える。そういえば昔着ていた制服は、今一体何処にあるのだろう。もう捨ててしまっただろうか。毎晩寝押しをしていた襞スカート、今彼女らが着ているものとそっくりなあのスカートも、何処にやったかもう、自分では思い出せない。
 どうしても身体を起こしていることができなくて、受付のソファーで鞄を枕に横になる。いつもより遅く始まった診察、名前を呼ばれ、ふらつきながらドアをくぐる。
 思いつくことを思いつくままに喋る。このところ立ちくらみが酷いことだとか、夕方になると吐き気が止まらず、夕飯を毎日のように殆ど吐いてしまうことや、娘に対する戸惑い、そして。先日あの街を訪れたときの自分の反応。
「先生、もう大丈夫だと思ったんです、だってもう十年はゆうに経ってるわけですよ、もう大丈夫だって思ったのに」
「前にも言ったかもしれないけど。心がどうこうじゃぁないの、神経がやられてしまっているのよ、PTSDというのは。だから、気持ちが大丈夫でも、身体は勝手に反応するの」
「神経、ですか」
「そう、心が傷ついてるんじゃぁないの、神経が傷ついてるの。だから、そうやって身体が反応してしまう」
「一体いつになったら大丈夫になるんですか」
「ならないと思った方がいいわね」
「…はぁ」
「自分の意志でどうにかなる問題じゃぁないのよ。いくら心を気持ちを強く持ったって、だめなものはだめ。無理なものは無理。だから、それを避けて通るしかないの」
「もう、失ったものはどうやっても元には戻らないってことですかね」
「…」
「やられっぱなし、やられ損ってことですか」
「…」
「すみません、分かってるんです、抗ったって無駄だってこと。分かってます。ただちょっと、言いたくなってしまっただけで…」
「そうね」
「どんなに頑張っても踏ん張っても、無駄なことがあるってことですよね。それを受け入れて、引き受けて、やってかなきゃならないってことですよね」
「…」
「…」
 じゃぁまた来週会いましょうねという先生の言葉に頭を下げて、私は診察室を出る。扉を開けた瞬間視界がぐらりと揺れる。私はドアのノブを握り締め、体勢を立て直す。
 再び電車に乗る帰り道。途中、何度か、本屋の前で立ち止まる。が、まだ活字をまともに辿ることはできそうにない自分の脳味噌に、小さくため息をつき、そのまま通り過ぎる。
 ふと思い立って、モミジフウの樹の下に立つ。見上げれば空を背景に枝からぶらさがる実の姿。樹の枝はやがて裸になるだろう。枝は黒々と伸び、そこにモミジフウの実はぶらさがる。冬を越え、再び春が巡ってくるときまで、実はずっとそこにぶらさがっている。いや、春がくれば来たで、今度は彼らは、若い葉や若い小さなまだ柔らかい実の間々に、べろりんとぶら下がっているのだ。新しいものと古いものとが同居する樹。重なりゆく年輪にはきっと、悲喜こもごもの声が織り込まれているに違いない。
 家に辿り着いた私は、すぐ仕事にとりかかる気持ちにはなれず、ぼんやりと窓際に立つ。足元には、娘と植えた球根のプランターが並ぶ。その土の表面が微妙にひび割れているのが気になって、しゃがみこみ、凝視する。
 あぁ、なんだ、芽が出てきたのだ。途端に自分の頬が緩むのが分かる。土曜日あたりから水仙の芽が出始めてはいたが、まだ他の者は芽の出る気配がなかった。が、今日、薄い日差しを浴びながら、ほんのちょこっと、小指の爪の先ほどの芽が、ひび割れた土の間にちょこねんと顔を出しているのが分かる。アネモネもラナンキュラスも、確かに芽が出ている。
 不思議だ。今上から土を見下ろしたならば、ただちょっとひび割れているだけの土。でも、そのひび割れた土の下には、ぎゅっと身体を曲げている芽が控えている。彼らはきっと、自分の時期を待っているのだ。自分の身体が温まり、その身体をのおずと伸ばしたくなる瞬間を。そしてその時が来たら、ぐいっと土を振り払い、伸びてくるのだ。まっすぐに。間違いなくそこには、命が在る。生命が在る。鼓動が在る。生きて、いる。
 私はプランターの前でじっと、座り込む。午後の日差しが私の背中に降り注ぐ。薄い日差しではあるけれども、それでも私の背中をじわじわとあたためてくる。同時にこの日差しはきっと、この土の布団をぬくぬくとあたためてくれているに違いない。
 どのくらいそうしていたのだろう。気づけば、日差しのぬくみより風の冷気で首筋がぶるりと震えるほどに身体が冷えている。私はゆっくりと立ち上がり、ベランダから街を見やる。
 これからも多分、何度も思い知らされるのだろう。自分がかつて手にしていたものの貴重さと、もはや二度と取り戻すことができない失ってしまった代物の大きさとを。私は何度でも思い知るのだろう。でも。
 思い知りながら、歩いてゆくのだ。歩くことをやめたらそれで終わりだ。終わったまま生き延びるなんて、それだけは嫌だ。だったら。
 だったら私は、引き受けて歩き続けるしかない。様々な思いを奥歯でぎりぎりと噛み締めながらも。
 娘が帰ってきたら、この新芽たちのことを教えてやろう。そして明日の朝一番に、娘と二人、プランターを見よう。きっと今日よりも明日の方が、はっきりと芽の様子を見ることができるに違いない。娘はどんな顔をするだろう。
 部屋に入ろうとした私の背後で、小さな気配がする。はっと振り返ると、ベランダの手すりに二羽の雀。目が合った途端飛んでゆく彼ら。その姿は、薄曇の空に、瞬く間に溶けて、消える。


遠藤みちる HOMEMAIL

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