見つめる日々

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2005年11月04日(金) 
 ここ数日、日差しがとても心地よい。そんな日差しを浴びて、ベランダでは、次々球根の芽が顔を出し始めた。
 芽が出てるんだよと娘に教えると、娘は早速ベランダへ出る。が、彼女は、一体何処に芽が出ているのか、分からないらしい。
「みう、ほらここだよ、下から土を持ち上げてるの、この土の下、ひび割れた隙間から見てごらん、土と似通った色の芽が出てきてるはずよ」
「黄緑色じゃないの?」
「うん、ラナンキュラスとアネモネは、水仙みたいに黄緑色じゃぁないね」
「なんで違うの?」
「うーん、咲くお花がみんな違うように、芽もみんな違うんだよ」
「うーん」
 私が指差して、やっと彼女は納得がいったらしい。こっちにも、そっちにもある、と、ようやく自分で見つけられるようになった。アネモネの芽の、何とかわいらしいこと。ぐいっぐいっと、丸めた背中で土を押し上げる仕草。そしてついに土を破って芽を上に向ける時の誇らしげな顔。眺めているだけで頬が緩む。ラナンキュラスは、あの華やかな花からはあまり連想できないような、地べたに張り付くような芽を真っ直ぐに空に向かって出している。どれもこれも、冬の最中に咲く花々。彼らの力強い姿を見ていると、こちらも背筋をぴんと伸ばしたくなる。

 木曜日、娘を連れて書簡集へ向かう。晴れた休日ということもあってか、電車の中の人々みなが、のんびりと、ぼんやりとした表情をしているように見える。寄りかかり口をぽっかり開けて眠る客、買い物袋を抱きかかえ何処を見るでもなくぼんやりと前を向いている客、何が楽しいのか分からないが二人して交互に耳打ちしながら声を殺して笑い合う客。
 家から約二時間、ようやく辿り着く店。娘と二人でノートを操る。私がいない間にここに来て言葉を残していってくれた人たちのことを、その言葉を辿りながらあれこれと思い描く。わざわざ時間を割いてここまで来てくれた人たち、どうもありがとう、そう心の中で呟きながら、私は手を合わせる。
 いつもそうだが、いったん作品を外に出してしまうと、私は結構開き直れる。いや、開き直るという言葉が適当なのかどうか分からないが、要するに、距離を持って傍観することができる、とでも言おうか。作品を外に晒すまでは、かなり長いこと作業するし悩みもする。似通ったプリントを右手と左手に持って、一体どちらがいいだろうと延々と、何日も悩むことなんていうのは日常茶飯事だ。でも。
 今はもう、傍観できる。改めてぐるりと作品群を見回し、これが今の自分のカタチだな、と再確認する。あと十日もすれば多分、私はもう、別の地点に立っているに違いない。そう感じながら。

 先日、歯の治療のために歯医者へ行った。もう何年も何年も通っている歯医者。担当医ももちろん、もうずっと同じ先生。
 先生が治療を始める。左に立つ看護婦さんが私の口の中にバキュームを入れる。と、そこまでは別に、いつもと同じ風景だった。が、私の視界に異物が突然入り込む。私の心臓は大きくどくんと脈打つ。異物。それは、私の頭の後方に立った、男性の医者だった。
 どうしてその人がそこに立っているのか、私にはもちろん全く分からない。が、それはどうでもよくて、私にとっては、自分の背後に誰かが、しかも男性が立っている、というそのことが私を震撼させているのだった。
 声が出ない。お願い、どいて、そこにいないで、そこに立たないで、私の近くに来ないで! 心の中で私は叫びだす。が、実際に声は出ない。ひたすら私は心の中で繰り返すばかり。お願い、お願いだからそこをどいて、私の視界に入らないで、私の近くに来ないで! でも、その人は、そこに立っている。
 それだけじゃない、突如、女の看護婦さんとその人とが交代し、その人が私の口元に手を伸ばし。その人は私の唇をぎゅっと指で押さえた。
「!」
「どうしました? 痛いですか? もうちょっとですよ」
「…!」
「もう少しですからね」
 先生、違うんです、そんなことじゃないんです、痛くなんてないです、そうじゃなくて。誰か。助けて。
 でももちろん、誰が助けてくれるわけでもなく。その男性医師の指は私の唇を押さえたまま。私は身体が硬直し、同時に私の中を巡る血の全てがいっせいに逆流する音を、聞いた。私の視界は凍りつき、もう二度と動き出さないのではないかと思うほど遠ざかり。全ての音が、存在を失う。私はもう何処にもゆけない自分の、点のような小さな小さな塊が今燃え尽きるのを、ただじっと、見つめているのだった。
 どのくらいの時間が経ったのだろう。作業に一区切りついて、先生が私の椅子を元に戻す。途端、私は跳ね起きて、喉に詰まったままだった呼吸を何とか立て直す。そして思わず先生を呼び止める。
「どうしました?」
「先生、先生、あの」
「?」
「すみません、私、先生はようやく慣れて大丈夫になったんですけど、他の男性の方、だめです、女の歯科技師さんに代わっていただけないでしょうか」
「?」
「すみません、お願いします」
 気づいたら、涙が零れていた。何でこんなところで泣くんだ。私は唇を噛む。先生は、
「あ、はい、じゃぁ、分かりました。落ち着いてくださいね」
 そう言って、別の患者さんの方へ行ってしまった。
 独り残った私は、椅子の上、ぽろぽろと零れる涙を抑えきれず、俯くしかなかった。一体私は何をやってるのだろう。こんな場所で、こんなときにパニックを起こすなんて。自分でもつくづく自分が嫌だった。たかが知らない男性の先生の手が唇を押さえただけの話。私の視界に入っただけの話。その人は別に、私に害を及ぼそうと思っていたわけでもないだろう。が。
 私には、もう、そこに異物が存在するというそれだけで、充分すぎた。しかもその異物が私に触れたのだ。もう、おぞましいというか恐怖というか。気が狂うかと思った。
 少しずつ少しずつ、波が引いてゆくように、私の中の激流が凪いでゆく。血がようやくそのざわめきを収め始める。私は無理矢理に息を吸い込み、ゆっくりと吐き出す。
 結局、治療もそこそこに病院を出る羽目になった。治療しなければならない箇所は治療を終えることもできずそのままに。必死の思いで電車に乗る。が、途端にまた視界がぐらつくので、慌てて友人に電話をかけ、その声を頼りに、私はどうにかこうにか自分を保つ。
 這いずるようにして、ようやく辿り着く自宅最寄の駅。海からの風が私の頬を撫でる。涙はもうすっかり乾いていたけれど。でも。
 自分に対する情けなさは、どうやっても拭うことができそうになかった。一体何処まで私はこんな自分と付き合えばいいのだろう。答えなんてもう知ってる、もう分かってる、でもその答えをすんなり受け止めることもできない、そんな自分の、宙吊り状態が、私の喉をゆっくりと絞めつけるのだった。

 書簡集、娘と幼友達と一緒の帰り道、途中で何度か足元がふらつく。そのたび、手を繋いだ娘が私を見上げ、にかっと笑ってくれる。しっかりせねば。娘の顔を見つめつつ自分を叱咤する。母がふらついてどうするよ、幼い娘の前だ、しっかりせねば。幼友達が時折、血の気の引いた私の顔を見、声をかけてくる。大丈夫、まだ大丈夫。そうやって三人、電車に揺られ、日の落ちた道を歩く。
 別に、夕飯を何度吐いてしまおうと、そんなことどうだっていい。何度パニックを起こそうと、それもまた仕方がない。だから、だからせめて私は、それらを引き受け乗り越えてゆくのに必要な力が欲しい。
 ふと見やると、娘は横断歩道の前に立っている。そして、真っ直ぐに右手を上げ、渡り始めた。私はそんな彼女の後ろについて歩く。そう、彼女が大きくなるまで、私はここでしぶとく踏ん張っていなくてはならない。
 ママ! ママ、雀がいっぱいいるよ! 娘の声にはっと顔を上げ前方を見やる。夜闇を背景に立つプラタナスの樹に、ひしめくのは幾羽もの雀。彼らの家はここなのだろうか? 囀り合う彼らの声が、見上げる私たちの上にぱらぱらと降りかかる。さぁ私たちの家もすぐそこだ。早く帰ろう。


遠藤みちる HOMEMAIL

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