2006年02月25日(土) |
雲が流れ、風が流れ、宙は一時も休むことなく回り続け、私の周囲で時は過ぎゆく。その速度に追いついてゆけぬまま、私はてこてこと、時に俯きながら、時に立ち止まりながら、細々と歩き続けてる。 そんな私とは正反対に、ベランダのプランターの中、緑がこんもりと茂ってゆく。いつのまにか薄皮を破り、水仙が凛と立って咲く。小さな小さな花がくっつきあいながら、日差しの方へ日差しの方へと手を伸ばしている。アネモネの蕾も姿を現し始めた。頑なに下を向きながら、徐々に徐々に蕾を膨らまし、やがて、或る朝突然に、天を向く。私はその蕾の様を、じっと見つめている。来週には咲くのだろうその蕾たち。しんと沈黙を守ったまま、そこに在る。 虚無感は、唐突に私に堕ちてきた。私は声を上げる暇さえなく、その虚無感にどっぷりと包まれてしまう。底なし沼のようなその虚無感は、どんどん私を侵食し、もう抜け出せないのではないかと思えるほど。仕事をしようとか、家事をこなそうとか、思うのだけれども、身体が全く動かない。何とか立ち上がって水場に立ってみるものの、そこからどうしたらいいのかが分からなくなる。目の前に積まれた汚れた皿やコップを洗えばいい、頭ではそう分かっているのに、手が動かない。ならせめて仕事をと再びいつもの椅子に座ってみるのに、ここでもまた、私の心身は空回りし、結局何もできないまま一日が過ぎていってしまう。気づけば、娘の送り迎えと通院の為以外、外に出ることもできなくなっていた。 家賃の支払いにも困るほど収入が減り、なのに私の心身は動き出してくれない。今日の空はどんな色をしているのだろう、今日の海はどんな色を見せているのだろう、今日の風は、今日の雲は。そんなことをふっと思い、窓を開けようとしてみるのだけれども、空を見上げることが出来ない。世界を感じることが出来ない。私と世界とが、薄くて厚い透明なヴェールで遮られていることを、私は痛感する。 どうしたい? 何ならできる? どうやったら動ける? そもそもどうして私はこんな状態に陥っているんだ? 自問自答は際限なく続く。そして私の心に浮かぶのは。 何もかもが虚しい。その一点。 先日、自分の本棚を片付けていて、ふいに思った。編集部員時代に関わった本たちを、思い切って捨ててしまおう。私は、美術書を取り扱っている古本屋に次々電話をかけてみる。が。 どの店からも、その本はちょっと、と断られる。最近その本、売れなくて余ってるんですよ、だからねぇ、ちょっと。結局、十五件電話をかけてみたけれども、同じ答えしか得られなかった。私は、ダンボールの中にしまいこんでいたその本たちを見下ろす。どのくらいそうして見つめていたのだろう、自分の大きなため息にはっと我に返り、私はしゃがみこむ。 私がこの本たちに関わっていた頃は、まだ古本屋も歓迎してくれた。それが、いつ変化していったのだろう。この本を取り巻く状況がこんなにも変化していたとは、私は全く知らなかった。それも当たり前だ、本屋に行くことがあっても、私はあえてこの本たちの前は素通りしていたのだから。 そして思い出す。かつて編集部員として働いていた頃のことを。思い出している最中に、いきなり息が止まる。私の中に浮かんだ人間たちの顔すべてが、加害者たちのそれに見えてきて、私は呼吸困難に陥る。そして、気づいた。 殺してやりたい。と、自分が思っていることに。 もし娘がいなかったら。もしも今私の隣に娘がいなかったなら。私が単なる独り者だったなら。今すぐにでも加害者たちのところへ走ってゆき、次々に刺し殺していたのかもしれない。 でも、同時に思うのだ。そんなことをして何になる、と。起きてしまった出来事をなかったことにすることなど、どうやったってできない。関わった人間たちを全て私が殺したとしても、私の身の上に起きた出来事が、消えてなくなるなんてことはありえないのだ。 私は、本をもとのダンボールの中に戻し、押入れの一番奥にしまいこむ。当分それに触れないですむよう、一番奥に。
そんなふうに引きこもるばかりの私のところへ、友人が電話をかけてくる。手紙を届けてくれる。私はそれを受け取り、まだ自分が生きていることを実感する。
或る夜、ふと思い立って友人に電話をしてみる。友人が今泣いているんじゃないだろうか、そう思えて。電話が繫がる。電話の向こうから、震える小声が届く。ああやっぱり。そう思いながら私は受話器を握りなおす。泣きながら彼女が言う。私なんか生きてる意味あるんだろうか、と。だから私は断言する。あるよ、絶対にある。彼女が言う。ないよ、私なんか生きてる意味なんてない。どうして? たとえばさをりさんはちゃんとみうちゃんを育ててる、でも私は違う。そう言い終えた後、彼女の泣き声はぐわんと大きくなる。私は黙って、その嗚咽がやむのを待っている。どのくらいそうしていたか覚えていない。また会おうね、また酒かっくらおうね、そんな言葉を交わし、電話は切れる。 電話を切った後、私は、大の字になって眠っている娘の顔を見やる。そして思い出す。さおりさんはちゃんとみうちゃんを育ててる、生きてる意味ちゃんとあるじゃん。彼女の言葉が木霊する。 生きている意味がちゃんとあるでしょ。そういう言葉を、私は時々誰かから受け取ることがある。でも。何か違う気がする。娘を育てているから私には生きている価値が生きている意味があるのか。いや、違う。やっぱり違う。 そもそも、私は娘を育てているのではない。共に時間を過ごしているというだけで、私は娘を育ててなんていない。むしろ、娘が私を育ててくれているのだと思う。娘が私を存在させてくれているのだ。 私を育て、存在させてくれている娘と、毎日を過ごしている。それが多分、本当の私たちの姿だ。 そもそも。生きている意味、生きている価値って、一体どうやって決められるのだろう。そんな基準、何処にもないんじゃなかろうか。 生きている実感を得ることができない、生きているということに価値を見出せない、意味を見出すことが出来ない、それは多分、誰の中にも在るんだろう。私がこのところ、どうしようもない虚無感に浸かってしまっているように。 だから、私は懸命に自分に言い聞かせる。生きてるだけで充分だ、と。今この瞬間を生き延びているそれだけで、もう充分だ、と。
まだもう少し、私の引きこもりは続きそうな気がする。今は、人ごみにまみれるのが怖い。幻覚だと分かっていても、錯覚だと分かっていても、加害者たちの顔がありありと蘇るのは、どうにもたまらない。 そんなとき、いくら焦ってもどうにもならない。 ご飯が普通に食べられるようになるまで、娘の隣にすいっと横になって眠れるようになるまで、そういう時が来ると信じて、今は待ちの姿勢でいるしかない。それでも、生き残っていれば、きっと。きっとまた笑ったり喜んだりはしゃいだりする時が来るはずだから。 今はただ、そう信じて、ここにしがみついてでも生き残っていよう。もうじきまた、朝が来る。 |
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