見つめる日々

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2006年03月11日(土) 
 風呂上り。娘の長い髪をドライヤーでゆっくり乾かす。それが終わると今度は自分の番。そうして私が髪を乾かしていると、本を読むと言って娘が先に布団に入る。静かだなと思いちょろっと布団の方を見やると、娘は本棚の絵本の中から一冊選び出したところ。と同時に声がする。「ママ、本読んであげようか」「ん? 何読んでくれるの?」「アリクイのアーサー」「じゃあ読んで」。この頃、時々だけれど、こうして彼女から本を読んでくれることがある。そういう時は、それがどんな本でも、たとえ漫画であっても、読んでと言って黙って聞くことにしている。でも、不思議と、彼女はこの、アリクイのアーサーを数多く選び取る。今夜もそうらしい。
 「アリクイのアーサー…ときどきあーさーはかんがえこんでしまいます ぼくわかんない あーさーがそういったのでわたしはききました なにがわからないの? ありをたべるからありくいってよばれてるんだよね そうよ どうしてほかのなまえじゃないの? ありくいはむかしからありくいっていうなまえだもの ねこはさかなをたべるよね? そうよ とりはみみずをたべるよね? そうよ だけどねこはさかなくいじゃないしとりはみみずくいじゃないよね そうね だったらありくいだってほかのなまえでもいいとおもわない? じゃぁどんななまえでよんでもらいたいの?」
 たどたどしいながらも、彼女は必死に読んでくれる。ところどころ飛んでるな、と気づきつつ、まぁこの程度は許容範囲だろうと、私はフンフンと相槌をうちながら聞き耳を立てている。
 「ぶらいおんなんてどうかな でもおまえはぶらいおんじゃないでしょ じゃぁすくじら でもおまえはすくじらじゃないでしょ じゃぁぞうにしようかな でもおまえはぞうじゃないでしょ ぽうさぎってのはどう? でもおまえはぽうさぎじゃないでしょ じゃぁぼくなんてよんでもらえばいいの? おまえはありくいってよんでもらえばいいの ありくいのあーさーってね」。
 一話読み終えた彼女が本から目を上げてぷぷぷっと笑う。
「ありくいはありくいだよねぇ」
「そうだねぇ、アリクイはアリクイだね」
「すくじらなんて変じゃん」
「スクジラって言ったら、鯨の方を思い出すもんねぇ、やっぱ違うんじゃないの」
「アーサーって変なの!」
 そして彼女が待ち遠しそうに言う。
「ね、アーサー、忘れ物するんだよね」
「そうそう、いっぱい忘れ物するんだよね」
「それでね、すぐ戻ってくるんだよ」
「そうそう、で、続きは?」
 「あ、ええっと…ときどきアーサーはわすれものをします いってきます あーさーががっこうへでかけていきます いってらっしゃい ドアがしまりました とおもったらまたドアがあきました わすれもの? こくごののーとわすれちゃった あーさーはかいだんをいちだんぬかしでかけあがっていきました そしてのーとをもってかけおりてきました いってきます いってらっしゃい どあがしまりました またどあがあきました またわすれもの? うんどうぐつをわすれてた あーさーはかいだんをいちだんぬかしでかけあがりました いってきます いってらっしゃい どあがしまりましたまたどあがあきました まだわすれものがあるの? ふでばこをわすれてた ほかにわすれものがないかよくかんがえてごらん ぜんぶそろったの? うん ほんとに これっぽっちもまちがいなく、ぜったいにどんなわすれものもないわね? うんほんとにこれっぽっちもまちがいなくぜったいにどんなわすれものもないよ いってきますいってらっしゃい またどあがあきました まだわすれものがあったの? おかあさんにきすしてあげるのわすれてた いってきます いってらっしゃい どあがしまりました… ママ!」
「何?」
「男の子もキスするの?」
「するんじゃない? ママとみうがキスするみたいに」
「えー、男の子なのに変だよ」
「どうして?」
「だって男の子じゃんっ」
「そうなの? 男の子はチューしちゃだめなの?」
「んー…」
「じゃぁみうは、大きくなったら好きな男の子とチューしないんだ」
「えーっ!」
「ママするよ」
「えーっ!」
「ぶちゅーっ」(と、娘に襲い掛かってキスをする母)
「きゃーっ!」
「もうチューしちゃった! あ! 拭いたっ!」
「きゃー! ごしごし…」
「このー!」(と言って娘が息切れするほどくすぐる母)
「ぷーきゃーひー…」
「このっ、参ったか! 参ったって言わないと止めない!」
「ま、参ってない!」
「じゃ、やめない、やーいっ」
「ま、参った、参ったー!」
 彼女のその一言で、私は手を止める。笑い転げてひぃひぃ言っている娘は、目をらんらんに輝かせて次の一撃を待っている。待たれてるとつい裏切りたくなるもので、知らん顔をして私は彼女の隣にごろりと横になる。ママ、くすぐってよー、待ちきれなくて彼女が頼んでくる。やだよーん、と返事をすると、彼女は下唇をつきだしてぶぅたれる。その頬がひとしきり膨らんだところで、彼女の視界から外れた位置から手を伸ばし、彼女をくすぐってやる。
 一回、二回、三回。結局今夜も何回くすぐりと会話を繰り返したか覚えていない。「ほら、もういい加減寝なさいよー」「ママ先に寝ないでっ」「じゃぁ早く寝な」「…」。いい加減疲れたのかもしれない。言葉を交わしてまもなく、彼女の寝息が聞こえてくる。確かに彼女が眠ったことを確かめて、私はそっと布団から出る。

 本読んであげようか、なんて、そういう発想が何処から出てきたのか、私は知らない。自分が本を読んでもらったから、今度は自分が本を読んであげよう、その程度のことなのかもしれない。それでも最近時々彼女が言い出す、この、本を読んであげようかという言葉、耳にするたび、私はちょっとどきっとする。
 だから、私は彼女の本棚にある本は、彼女が留守の間に二度か三度は目を通しておく。でないと、彼女が読み飛ばしたりつっかえたりしたときに、フォローができないからだ。もちろんそんなこと、彼女には何処までも秘密なのだけれども。
 二人で暮らすようになった頃はまだ、ひとりで本を読むことなんてできなかった。それが、今、かなり不安定な日本語ではあるけれども、自ら私に読んでくれようと本を開く娘。来月には、この子がランドセルを背負って玄関を出てゆくのかと思うと、こそばゆいような歯がゆいような、何ともいえない気持ちになる。よくまぁこの頼りない母のもとでここまで無事に育ったもんだ、と、心の中、小さく拍手を送りたくなる。

 そんな頼りない無責任な母である私は、近頃どうも体調がおかしい。先日救急で再び病院に世話になった。その夜、たまたま救急で担ぎ込まれた人が多かったせいか、しばらく廊下で待たされたのだが、その間に私の手足の痺れは倍増し、処置室に運ばれる頃には痺れたまま手を開けないような具合になっていた。早速紙袋を渡され、さらに筋肉注射をされ、手の甲に点滴張りを刺され。私はもう、どうでもいいから放っておいてくれといいたくなる気持ちに陥った。どうしてこうも体調やら心調やら崩してばっかりいるのだろうと、それが何より嫌になる。が、一方で、どう足掻いても身体が言うことをきいてくれないのだからどうしようもないという惨めな気持ちにも陥る。どっちに転んでも、要するに、情けない。
 結局夜中を過ぎ、駆けつけてくれた友人の肩を借りて帰路につく。その夜初めて、娘を一人、部屋に残してきた。その事が四六時中気がかりで、彼女の顔を見るまで安心できなかった。けれど、玄関の鍵を開け、寝床を見れば、すぅすうと大の字になって眠る娘の姿。あぁ無事だ、よかった、と、ようやく肩の力が抜ける。
 いずれは、彼女は私の手を離れ、彼女ひとりで過ごす時間の方が格段に多くなる。それは分かっている。けれど、ニュースを見ればいつでも耳を疑うような出来事ばかりのこの世の中、一体どうやって安心すればいいのだろう、と、ふらふらと椅子にもたれかかりながら、改めて思う。三十数年生きている私が見渡しただけでも、今が一番、生きづらい世界のような気がしてならない。

 重だるい身体を横にし、うつらうつらしている最中、夢を見る。それはアネモネの夢で。アネモネが空を見上げながら、くしゃっと潰れている画が私の中で繰り返される。アネモネが死んでる、とその時思った。その画の印象があまりに鮮烈で。私の網膜にそれは焼きついた。だからその朝、ふらふらしながら窓を開ける。すると、アネモネは水不足でぐったりと倒れていた。慌てて水をやる。あの夢は、よほど喉が渇いたのだろうアネモネのSOSだったのだろうか。花がSOSを出すなんて話は、まだ聞いたことがないけれど。
 水を遣りながら、ふと、過ぎた日のことを思い出す。その朝、一番に窓を開けるとアネモネが咲いていた。「みう、来てご覧、アネモネが咲いてるよ」「え、どこどこ」「ほら、赤いの」「ほんとだー、青もある、ピンクもある」「ピンク?」「これ」「あ、違うよ、それはね、まだ蕾だからそう見えるだけで、咲くと赤くなるんだよ」「そうなの?」「うん、そう」「これ、色ないね」「それは多分、白い花が咲くんだよ」「ふぅーん」。窓枠のところでしゃがみこんだ彼女の背後から、私はひとつひとつ答えてゆく。彼女は果たして納得できたのかできないのか、最後のふぅーんという言葉は、句点が何処につくのか分からないほど延々と伸びていく。
 朝ごはんを食べながらさらに花の話。「ママ、みうのランナンキュラスはいつ咲くの?」「ランナンキュラスじゃなくてラナンキュラスね」「え、う、んー」「ラナンキュラスはね、もっとあったかくなってから咲くの」「水仙はいつ咲くの?」「水仙ねぇ、ちょっとおかしいねぇ、もしかしたら今年咲かないかもしれない」「え? 咲かないの?」「うん、もしかしたらね」「どうして?」「栄養不足、かなぁ」「じゃぁいつ咲くの?」「来年、また植えてからかなぁ、分からないけど」「…」「どうしたの?」「お花は植えたらちゃんと咲くんじゃないの?」「いや、咲かないことも、ある」「…」。多分、彼女の頭の中は今、ハテナがいっぱい浮かんでいるのだろう。私の手のひらより一回り大きいくらいの彼女の頭という海の中、ハテナ印がいっぱいぷかぷか…。そんな構図を思い描きながら、私は彼女に目ン玉焼きをすすめる。
 いっぱい水を汲んでいた如雨露がやがて空になり、私は娘を呼ぶ。「今日はママがお水やったから、明日はみうがお水あげてね」「はーい」。私は咄嗟に空を見上げ小さく唸る。明日は雨かもしれない。
 と、そこへ娘の声が予想通りに飛んでくる。「雨だったらどうするの、ママ?」「んー…」「明日が雨だったら、明後日お水あげるの?」「そういうことになるかな」。
 きっと、明後日になる頃には、私も娘も今の会話なんてすっかり忘れているに違いない。そして、きっとまた、同じ会話をするんだろう。「今日はママあげたから明日はみうだよ」「はーい」と。
 妙に彼女がいい返事をするときは何故か、雨が降る。
 そして翌日。予想通り。窓の外見やれば、通りには色とりどりの傘の花が咲いている。


遠藤みちる HOMEMAIL

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