2006年04月05日(水) |
あまりにも強い風が連日吹きすさぶ。ようやく天に向かって花広げたアネモネはだから、次々に倒れ、或いは折れ、無残な姿を晒す。そんな彼らの姿を見、もちろん私の胸は痛むけれども、それ以上、私は何もしない。部屋の中にとりこんでやる、という方法があることは知っている。けれど、アネモネだけを部屋に入れてやるのはあまりに不公平だ。白薔薇の樹たちだって、ようやっと新芽を芽吹かせ、さあこれからだと枝を葉を伸ばしているところ。ラナンキュラスもようやく小さな蕾を葉と葉の間に忍ばせているところ。全員を部屋に隔離してやれないのなら、どれかひとつだけ隔離するのは、私にはできそうにない。だから、窓辺にじっと立って、彼らを見つめる。 近所の川には、両側に桜の樹が延々と並んでいる。今その川面は、小さな薄桃色の花びらでびっしりと埋め尽くされている。風が吹いていなくてもひらひらと川面に落ちてくる花びらたち。この季節で私が一番愛する景色は、この景色だ。咲き誇った夥しい数の花たちが、ひらりひらりと落ちてくる。アスファルトの上に落ちればそれは、風によってくるくると踊り、今目の前にあるように水面に落ちたなら水面のさざめきのまま漂う。ぐるりと世界を見回せば、桜の舞い散る気配がそこいらじゅうに溢れている。その気配に耳を澄ましていると、様々な声が聴こえてくる。囁くような声が。精一杯花開き、そしてあっさりと舞い落ちる。その様は、「死も意味をもつこと、「自分の死」を死ぬことが意味のあるものであり得ること」、そのことを、私に痛いほど教えてくれるのだ。
「…社会の役に立つということは、人間存在を測ることができる唯一のものさしでは絶対にない…。家にいて、ほとんど歩けず、窓ぎわの肘掛いすに座って、うつらうつらしているおばあさんは、たいへん非生産的な生活を送っています。それでもやっぱり、子どもや孫の愛情に囲まれ包まれています。このような愛情に包まれてこそ、うちのおばあちゃんなのです。うちのおばあちゃんである彼女は、このような愛情に包まれて、代理不可能でかけがえのない存在なのです。まだ職業をもって仕事をしている人が、共同体に関与する行ないで、代理不可能でかけがえのない存在になるのとまったく同じことなのです。 …ひとりひとりの人間が唯一であり一回きりであることがその人の価値だということをお話しました。また、その価値は共同体に関与していなければならず、唯一であることは「共同体にとって」価値があることをお話しました。そのとき主に念頭にあったのは、共同体のためになにかを行なうということでした。ここではっきりすることですが、第二の方法があって、その方法でも、人間は、唯一で一回きりの存在として認められます。その方法でも、その人の人格価値が実現され、その人の個人としての具体的な生きる意味が実現されます。それは、愛という方法です。愛されるという方法といったほうがいいでしょう。 それは、いわば受け身の方法です。…「自分でなにかをつけ加えないでも」、いわば向こうからおのずと与えられてくるのです。このように、愛されるという方法では、行ないによって功績としてかち取らなければならないものが、なんら功績がなくても手に入るのです。それどころか、愛を自分の功績で手に入れることはできないのです。そもそも、愛は功績ではなく、恵み(グナーデ)なのです。それで、愛を通っていくことによって、「恵みの道で」、他の場合には働いて得なければならないもの、活動によって手に入れなければならないものが与えられるのです。つまりそれぞれが唯一であり一回きりであることが実現されるのです。 …愛することによって、自分が愛する人がまさに唯一であり世界でただひとりだということが気づかれるということが、愛の本質なのです。」 「生きていることに無条件の意味があり、したがってまた生きる意味に対するゆるぎない信念を持つことができる…。 まず、生きる意味があることが示され、ついで、苦悩も意味に含まれること、生きる意味に関与することが明らかになりました。さらにそこから、死も意味をもつこと、「自分の死」を死ぬことが意味のあるものであり得ることがはっきりしました。…生きているとは、問われているということだということです。そして、生きる意味を問題にするのは間違っているということです。…人生「という」問いは、ただいつも「自分の」人生に責任をもって応答することで答えることができる…」 (V.E.フランクル)
文字を読むことがまだ困難で、未読の本が日々山積みになってゆく中、せめて何か一冊、せめて数ページでも、と本を開く。私には昔から本を読みながら鉛筆で線を引く癖がある。上に引用したのは、過日私が線を引いた部分。 線を引いたその時のことは、たいてい忘れてしまう。自分で線を引いておきながら何とも無責任な話だが、でも、忘れてしまうのだ。でもそれは、表面的にというか、意識上で忘れてしまうというだけで、私の無意識の深森の中にはしんしんと堆積されていく。たいした秩序もなく無意識の層に堆積されたそれらは、それまでばらばらなピースだったところが、やがて繫がりあい、枝葉を伸ばす。それが無意識の層を突き破った時、私はおのずと気づかされる。あぁそういうことだったのか、と。だから心に引っかかって私はわざわざ線を引いたのだな、と。 もちろん、気づいただけではまだまだカタチにはならない。私が気づいて初めて、それらは私の内に存在するものとなり、そして、それを私が昇華したときようやっと、小さな花が咲く。そうして開いた花は、めいめいに涼やかな声で歌うのだ。めいめいの存在を、私に知らせようと。
雨が降っている。車が行き来するたび、独特な雨音が大きく響く。ベランダではもうそろそろ終わりを告げそうなアネモネたちの隣で、ラナンキュラスが蕾を膨らませ始めている。そして白薔薇の樹は。しんと黙って、まだ赤味の残る新芽を空に向けて広げている。 明日は、晴れるといい。もちろん雨の日も好きだけれど。 |
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