見つめる日々

DiaryINDEXpastwill HOME


2006年04月11日(火) 
 登校班の集合場所に、一本の桜の樹がある。相当な老木であろうと思われるのだけれども、去年も今年も、枝の全てに夥しいほどの花をつけた。そして今、桜の花びらはひたすらに舞い散る。樹の根元はもちろん、十字路のアスファルトの上にも、排水溝の蓋の上にも。絨毯のように広がり道々を飾る落ちた花びらは、やがて人々の靴底に踏まれ、あるものはちぎれ、あるものはよじれ、そうしてやがて、この場所から消えてゆくのだろう。
 「ほら、もうあと五分しか時間ないよ!」「ママ、おしっこ!」「さっさと行ってらっしゃい!!」。入学式翌日から、私たちの朝は一段と賑やかになった。いや、賑やかと言っていいのかどうかよく分からないが、私が急かし、彼女がばたばたと部屋を走り回る、という具合。
 それでも、彼女が靴をはき、玄関を飛び出してゆくときの「いってきます!」という言葉は、わたしに安心と心配と、その両方を同じ分量だけくれる。今日はどんな友達と遊んでいるのだろう、どんな友達と喧嘩しているのだろう、学童では何をしてるだろう。考え始めるときりがない。
 強風が吹き荒れたり、朝プランターにたっぷりやった水をいとも簡単に乾涸びさせたり、この頃の天気は実に忙しい。今の部屋は私が生まれた前後に立てられたマンションだから、当然浴室に乾燥機なんてついているわけもなく、仕方がないから、照る照る坊主を作っては物干し竿の端っこに結わえている。夕方になるとその照る照る坊主は一体何処に遊びに行ってしまったのか、ベランダの何処にも見つからなくて、だから、多分天気の神様が「まったくしょうがない人間どもだな」とでもぼやきながら持って帰ってくれたのかしらなんてことを考えてみたりする。

 ベランダのアネモネは、この風にやられてみんなあっちこっちそっぽを向いている。かぜがなければ真っ直ぐに天に向かって開く花だというのに。
 その隣では、ラナンキュラスの蕾がぷくぷく膨らみだしている。が、これも強風で何本か花開く前に折れてしまった。哀しくなって、ガラスのコップにいけてみる。コップの中で花が咲くのかどうか分からないから、娘にはまだ何も告げていない。無事に、ほんのちょっとでも開いてくれると嬉しいのだけれども。

 私にとって近しい友から、或いはしばらく会っていなかった友から、娘へ入学祝が届く。こんな嬉しいことは、最近全くなかった。娘よ、ちゃんとお礼の手紙を書くんだぞ。
 
 かなり頭が、いや、脳味噌が混乱しているのを、主治医に指摘されずとも感じられるようになってしまった。それでもリストカットもオーバードーズもしない。しないと決めた。するときは、もうこの世にさようならをするときだ。
 
 だんだん現実と幻との境が曖昧になってゆく。傍らに友がいてくれるときは、友が指摘してくれるから、しばし首を傾げた後、あ、そうだった、と気づくことも出来る。が、これがクライアント相手だったらどうなる? それを想像すると、もうそれだけで、家の外に出ることが恐怖以外の何者でもなくなる。突拍子もなく、恐らくは現実には在り得ないであろう話をぺらぺらと喋る私に、「それ違う」と、言ってくれる友人は一体今何人いるんだろう。私の最近の状況を踏まえた上で、「それ違う、在り得ない。それは幻覚か幻聴だ」と苦笑して私を安心させてくれる友人たち。
 それでも不安は増殖してゆく。

 そんな私の上にも、そんな友の上にも娘の上にも、平等に空は広がり、色づいてゆく。風はさらりと渡り、太陽の光が花々の上に降り注ぐ。
 平凡でいいんです。どこまでも平凡でいいんです。私はただ、自分の死を自分で受け入れ全うするまで、生き延びていたいだけなのです。
 神様なんて信じない。だから、夜闇に手を合わせて呟く。どうか明日もまた一日、生き延びることができますように、と。


遠藤みちる HOMEMAIL

My追加