見つめる日々

DiaryINDEXpastwill HOME


2006年04月13日(木) 
 アネモネがそろそろ終わりを告げる。それでも精一杯ひろげる花や葉たちに降り注ぐのは、薄曇からさらさらと降りてくる陽光。
 白や赤のグラデーション、紫によく似た蒼、薔薇の赤とは似ても似つかぬやわい赤。お疲れ様。私はそんな花たちに小さく声をかける。今年の秋にも必ず君らを植えるから、そうしたら来年また、その姿を私にちゃんと見せて。
 小さいながら花韮が花を広げ始めた。母が、白ではなく青筋の入った花韮が欲しいと言ったからわざわざ育てているというのに、当の母は「え? 私、そんなこと言ったっけ?」。全くお気楽な人である。 

 死にたい、と、たとえ幾百幾億回書いてみたって、私は死にやしない。死んでやる、死ぬ、殺してくれ、さようなら。死にダイブする人たちの心の中には、その瞬間、どんな言葉がどんな想いが浮かぶのだろう。
 私は。その余裕があるのなら、大声で、ありがとう!と叫んで死にたい。

 死にたい、わけじゃぁない。疲れたのだ。疲れているのだ、多分、今、わたしは。
 それもそうだろう、頭の中で幾つもの声が、てんでばらばらに喋り続けているのだから。もしかしたら私がひとつひとつに耳を傾けてあげれば、この声たちは治まるかもしれない。だから私なりに耳を傾けてみる。だが、頭が混乱するばかり。涙がでそうになる。もちろん泣くなんて悔しいから泣きやしないけど。
 それに、そもそも私の「死にたい」や「死んでしまいたい」は、辞書にはのっていない。私だけの辞書にはしっかり載っている。私がつい使ってしまう「死にたい」は、多分、一般的な辞書で探したならそれは、「消滅したい」だ。でもそのためには、私が関わった人全ての人の中から私の記憶を消去しなくてはならない。それができなきゃ、私は無責任だ。無責任どころか、人として為してはいけないことなのだ、それは。
 だから、ここに書いておこう。気が済むまで書いておこう。
 死にてぇ、死んじまいたい、死んでやる、今すぐ死んでやる。…と、今書いてみたものの、たいした言葉、ないもんだなと痛感した。思わず笑ってしまった。そんなもんか、と。やっぱり私には、「消滅しちまいたい」っていう言葉が、一番しっくり来るのかもしれない。ああ、こんなもん、弱音だ、弱音以外の何者でもない。でもたまには、弱音のひとつくらい言ってみたって、そのくらいなら赦されるさ。
 それとまた、そう簡単に「消滅」なんてできやしないことも知ってる。
 だから、私は生き延びる。何処までも何処までも生き延びて、生き残って、どんな重たい荷物でもしっかり自分の背中で背負って、思い切り笑って死んでやる。
 ここまで生き伸びたのだから、何処までも。あと三十年、五十年くらいだろ、私に死が訪れてくれるのは。そのくらいだったら踏ん張れる。踏ん張ってみせる。
 
 「…自分の運命に対するこのような無関心はますます進んでいきます。…はじめの二三日は、部外者には想像できないような、ありとあらゆるおぞましいことに満ち満ちた大量の印象に対して、恐怖や憤激、吐き気というような感情が起こるのですが、こうした感情はついに弱まっていって、情緒そのものが最小限に減ってしまうのです。そうなると、ひたすら、その日一日をなんとか生き延びることにだけ全力が注がれるようになります。心的生活はひたすらこの唯一の関心だけに、いわば遮光されるのです。…心はそうやって自分を守るのです。そうやって、流れ込んでくる出来事の圧倒的な力から身を守り、均衡を保とうとするのです。無関心になって自分を救い出そうとするのです。
 …つまり、人間は、強制収容所にいるからといって、心の中も、分裂病質の「典型的な収容所囚人」になってしまうように、外から強制されているわけではけっしてないのです。人間には、自由があります。自分の運命に、自分の環境に自分なりの態度をとるという人間としての自由があるのです。「自分なりに」ということがあったのです。
 …仮に他のすべてのものはとりあげることができても、そして事実は他のすべてのものは取り上げても、内面的な能力、人間としての本当の自由は、囚人から取り上げることができなかったのです。その自由は残っていたのです。」
(V.E.フランクル)

 私の中にも、その能力は、自由は、残っているはず。目で見ることはできないけれども信じることはできる。だから私は信じる。
 とことんまで私は私を生き延び、そして最後、笑って眠るように死ぬのだ、と。


遠藤みちる HOMEMAIL

My追加