2009年09月04日(金) |
まだ夜明け前。音を立てないように玄関を開ける。目の前に広がるのは小学校の校庭。その向こうに、埋立地に建つ幾つもの背の高いビルが聳える。そのビルの間から、朝日は昇る。私はしばらくそのあたりを眺めている。やがて、ぱっくりと音を立てたかのように、まさにぱっくりと、陽が現れる。空に伸びる幾筋もの光。まだら模様の雲がくっきりと姿を現す。刻々と変化する空、雲、街、光。世界のあらゆるものが今まさに目覚め始めたかのような錯覚を覚える。ふと想像する。今海の底で深海魚は何を思っているのだろう。隣に沈む貝は何を夢見ているのだろう。 振り返れば、緑色の玄関扉の隣で、アメリカン・ブルーは今日も美しい蒼色の花を開かせようとしている。この花は正直だ。陽が昇ると共に開き、日が落ちると共に萎む。まさに陽光と共にある。
そっと部屋に戻ると、ココアがキャベツを貪っている。昨日差し出したときには、怖がって手を出さなかったココア。小さな小さな手と足でキャベツの葉を挟み抑えながら、これまた小さな歯でがじがじと齧っている。その様があまりにかわいくて娘に声をかける。もちろん娘はまだ眠っている。声をかけてもぴくりともしない。その安心しきった寝顔にちょっと笑い、私は朝の準備を始める。
昨夜娘とそれぞれに作業をしていると友人から電話。遠く離れた西の街に住むその友人が、調子はどう、と尋ねる。ぼちぼちかな、と答えると、私ちょっと落ちてるかも、と受話器の向こうで声がする。そういう時もあるよね、と、ぽつぽつ私たちは言葉を交わす。 裁判員制度が始まって、性犯罪被害にまつわる裁判も始まって、でもそれをどう捉えたらいいのか正直分からない。そういう話になる。そう、どう捉えたらいいのか分からない、その言葉が一番あっているのかもしれない。ニュースはさまざまな報道をする、コメンテーターはさまざまなコメントをこぼす。でもそんなことはどうでもいいんだ、私たちはその向こうにある真実が知りたいだけ。その時被害者は一体どうしているのか、と、ただそれが、心配なだけ。かつて自分たちも同様の被害を受けた、その一人として。 ひとしきりその話をし、その後、私は電話を娘に渡す。近くに住んでいた頃は彼女とさんざん遊んだことのある娘は嬉しそうに、今ハムスターがどうしているのかを彼女に話している。
朝の支度をあれこれしている最中に、友人からメッセージが入っている。今日はお弁当が作れたよ、ねぇ、本が読めないときはどうしてる?と。 よかったねぇ、と書いた後、私はしばし首を傾げて考える。そして続きを書く。 私は、さんざん読み馴れた本を開くようにしている。そう、本がどうしても読みたくて読みたくて、なのに全く活字が読めない時、私はもう暗記するほど繰り返し読んだ本を開くのだ。もうページのどこにどんなことが書いてあるのか覚えてしまうほど繰り返し読んだ本を。そして字を辿る。最初のうちそれは、字だとさえ認識できないほど心が解離していようと、とにかく辿る。そして心の中で、「ここには何が書いてあって、次はどんな文章があって、そして次はこんな展開だった…」と想像する。そんなことをしつこくやっていくうちに、気づくと、心の映像と目の前の文字とがぱっと一致するときがある。その瞬間が、読み始められる瞬間なのだ。 この流れを止めないよう、私は読む。そう、ようやく「読む」のだ。心の映像と文字とが重なり合って、進んでゆける。そうして一冊を辿り終える。辿り終えたとき、いつのまにか、本を再び読めるようになっている自分に気づく。 彼女に向かってそのことをかいつまんで書いてみる。届くだろうか、彼女に伝わるだろうか。伝わるといい。そして、彼女の何かの折のきっかけが生まれてくれたらいい。そんなことを祈りながら、私は返事をしたためる。
久しぶりに一杯のあたたかいカフェオレをいれ、そのカップに口をつけつつ、ベランダを眺める。パスカリが三つ目の蕾を開かせ始めた。綻び出したその小さな小さな蕾は、一滴の光を受け、南東から吹いてくる風に揺れている。ちらちらと揺れる白。
「ママ、夢見た」。朝一番の娘の声がする。私はわざと、おはようと前置きしてからその声に応える。何の夢? リュウの夢。えー、なにそれ。リュウと私しか出てこないんだよねー。いいじゃんいいじゃん、それで? えー、あとは秘密だよ。ずるーい、教えてよー。やだよー! そんな私たちのやりとりを笑っているのか、窓から蝉の声が突然降り落ちてくる。あぁまだ、蝉はいるんだ。こんなに涼しくなっても彼らは必死に啼いている。その声がなんだか少し切なくて、私は耳を欹てる。
そうだ、本がちょうど読めなくなっている今日は、何の本を持って出ようか。高村薫の「神の火」? 山本周五郎の「ながい坂」? それとも長田弘の「深呼吸の必要」? あぁそれとも、メイ・サートンの「独り居の日記」にしようか。読めないなら読めないでいい、眺めるだけでも、何か、変わるかもしれない。 ノートにボールペン、お気に入りの香水を入れたかばんを肩にかけ、私は今日も自転車に跨る。いってきます、またあとでね、と、娘と手を振り合って。 |
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