見つめる日々

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2009年09月26日(土) 
目覚ましの音で目が覚める。いつもより早めの四時半。今日はお弁当を作らなければ。昨日のうちに下ごしらえしておいたつくね団子をフライパンに入れ、醤油と砂糖とみりんをふりかける。味がなじんだらそれでできあがり。次に浅漬けにしておいた胡瓜の水気を軽く切る。ミニトマトを洗って、うずら卵と一緒に三色でお弁当を飾る。おにぎりは鮭味にして、最後チーズと海苔でほうれん草を巻いたら、もうできあがり。実に簡単なお弁当だなぁと、できあがったものを見て思う。でも、あんまり手をかけすぎると自分が疲れるので今日はやめておく。いや、今日も、か。
薔薇の蕾の付け根の方が膨らみ始めて、緑の間から白い色がちらり見え始める。これはパスカリ。白の花。
そういえば、昨日母に笑われた。コガネムシを潰すと、どうしても自己嫌悪に陥るんだ、という話をしたら、まさにからからと笑われた。気持ちは分からないわけではないけどね、そんなことで落ち込んでたら生きていけないわよ。母はそう言って笑った。ごもっとも。そう思いつつ、それでも私は落ちるんだよなぁと苦笑する。コガネムシだけではない、アブラムシ、シャクトリムシ、他にもたくさん、私は殺生をしている。数えだしたら多分きりがない。その中でもコガネムシを潰す時とりわけ罪悪感を感じるのは、あの音と姿があるからなんだろう。乾いたあの音。くしゃりというあの音、そして潰れたあの姿。
東から伸びてきた陽光が、向こうの通りの建物に反射している。大丈夫、今日は晴れる。空にも雲はほとんどない。今日はそう、娘の運動会。

駅を三つ。それは、中学の頃から通い慣れた三つの駅。かつてはこの三つの駅の間を、しょっちゅう歩いていた。友人たちと歩くこともあれば、ひとり歩くこともあった。電車に乗ればあっという間、かもしれない。でも、この駅の間々に、寄りたい場所は山ほどあった。だから歩く。おかげで裏道も何も知りつくしている。この信号が青になったら次はどこが青になるか、ここを曲がるよりも朝はどこを曲がる方が早いか、手に取るように分かる。駅三つ分。自転車で突っ走れば15分。ゆっくり走っても20分あれば何とかなる。
そうして辿り着いた先は、ちょうどセールの真っ最中らしく、朝からすごい人出だ。私は少々うろたえる。
それでも、逃げ込むように階段をのぼり行った先で、もう見慣れた顔が笑みを浮かべて私を迎えてくれる。その笑みに、私は心底ほっとする。何ヵ月ぶりだろう。もう半年以上切っていない髪を、久しぶりに揃えてみることにした。担当の美容師さんはとてもかわいらしい色白の女性だ。もう長年通っているから何も言わなくても、任せておけば大丈夫、と私は思っている。
私が通っている間に、彼女は子供を産んだ。その子供の話で盛り上がる。途中、友達はたくさんいなくてもいい、本当に必要な人だけいてくれればそれでもう十分自分は幸せなのだという彼女の言葉に、私は深く頷く。
そして気づけば私はまた、うとうとしている。はっと目を覚まして、鏡の中、彼女が笑っているのに気づく。「なんか嬉しくなるんですよねぇ、うとうとされてると」。え、何故?と私が問うと、彼女が話してくれる。覚えてますか、最初にここにいらっしゃったとき怪我されてましたよね、ふらふらなさってもいて。なのにとても緊張なさっていて。美容院は苦手なんだっておっしゃっていて。それが、今こうやってうとうとしてくれたりすると、あぁ安心してくれてるんだなぁって思えて、それが嬉しいんです。
私は記憶を辿る。しかし、それは途中で止まってしまう。怪我をした自分がここに来たことなんて、全く私の記憶から消えている。確かに私は美容院が大の苦手で、だからいつも自分で髪を切っていた。それでもここに来たということは。あぁ、そうか、多分腕をざくざく切っていた頃で、自分では髪の毛を洗うことなどできなくて、それでここに来たんだと思い至る。だとしたら、彼女が当時の私がふらふらしていてなのに緊張していて、というのがとてもよく分かる気がした。あぁ、あの頃から私は、ここに来ていたのか。
そして終了。次の予約は取らない。私が体調のいいときに電話をすることになっているからだ。そういう彼女の気づかいも、私には嬉しい。
再び自転車に乗る。揃えたばかりの髪が風になびく。洗いたてのその髪が、さやさやと音を立て、嬉しがっているのが分かる。

私が家で作業をしていると、娘が「ママ―!」と言いながら帰ってくる。明日ね、六時に起こして、放送委員で早く行かなくちゃならないから! 娘は塾の仕度をしながらあれやこれやまくしたてる。水筒でしょ、タオルでしょ、黒のTシャツでしょ、それからね、あとビニール持ってこいって。わかったから、でも忘れちゃうかもしれないから、後でメモしてちょうだい。分かったぁ、じゃぁ行ってくる! いってらっしゃい。
あっという間に再び玄関を出ていた娘に手を振って、私は再び作業に戻る。十月末から始まる展覧会の、前期の作品はもう仕上げた。後期の作品はまだ、プリントを仕上げていない。作品を絞り込めないでいるのだ。もういっそ全部候補を焼いてしまって、そこから絞り込んだ方がいいのかもしれない。私はそう思い、作業を続ける。
先日北海道に住む友人と話をした折、彼も言っていた。暗室作業には魔力がある、と。そう、不思議な力があるのだ、そこには。暗い部屋の中、赤い小さな光だけで作業をする。ピントを合わせ、数秒光を当て…。そこには誰もいない。誰の力も借りられない。自分の力だけが全てだ。頼れるのはそう、自分だけ。
そうして浮かび上がってくる像はだから、宝物のようで。浮かび上がり、定着してくれたその像を見やるときには、緊張していた全神経がふわっと緩む。そしてまた、同じ作業を繰り返す。
私はたいてい、息をすることさえ忘れるくらいに集中する。でもその集中力が、自分にいつもにはない力を与えてくれることをもう知っている。もちろんプリント作業が終わって暗室を出たときには汗だくで、くたくたで、腕も膝ももうがたがたになっている。それでも。
気持良いのだ。全力を尽くして何かを為すことができるその気持よさ。これはもう、たまらない。他に代わるものは、ない。
それともう一つ。私にとってたまらないのは、暗室を出たときの光だ。それが真夜中であろうと何であろうと、真っ暗な中から出てきたとき、私は辺りに光が満ちるのを感じる。その光に包まれた時、あぁ、世界はなんてあたたかいのだろう、と思う。

そろそろ家を出る準備をしなければ。朝の時間はあっという間に過ぎてゆく。今日は運動会。娘はもうとうに家を出た。私は弁当をハンカチで包む。あとはカメラ。それから、敷物。飲み物。あとは?
今年はじじもばばも来ない。私たち二人だけでの運動会だ。ちょっと寂しい。でも。
「頑張るからね!」と言って娘は出て行った。そんな娘の姿を私はしっかり見届けなければ。
玄関を開ければ一斉に校庭から響いてくる子供らの声。空には一面うろこ雲。さぁ、私も出かけなければ。


遠藤みちる HOMEMAIL

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