見つめる日々

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2009年09月25日(金) 
おのずと目が覚める。耳を澄ましても今朝は回し車の音がしない。気になって近寄ってみる。ミルクもココアもぐっすり眠っているらしい。ミルクの足が巣からはみ出していて、時々ぴょこっぴょこっと動くのが見える。
ベランダに出ると、空は久しぶりにすかんと抜けている。夜のうちに誰かが空のてっぺんを掃除したかのようだ。地平に沿ってゆっくり流れる雲。それもきっと、じきに薄らいでゆくのだろう。私はいつものように櫛で髪を梳く。抜け落ちてゆく何本かの髪の毛を拾い集め、ゴミ箱に捨てる。髪の毛が長いと、どうしても抜ける量が多く見える。最近特にそれが気になっていたりする。はげたりしないだろうか、なんて時々思う。
微風に包まれた薔薇たちが、静かに立っている。蕾たちは徐々に徐々に膨らんでいる。私はそれらを一つずつ指で撫で、虫がついていないいか、傷ついていないかを確かめる。この場所は高台で、風が本当にきついから、すぐに擦れてしまうのだ。でも、今のところ大丈夫らしい。
季節を違えて早く芽を出しすぎたイフェイオンやムスカリの間に、どうも水仙らしき芽がある。参った。この葉はどうにも切れない。植えっぱなしにしてしまった報いか。しゃがみこんで私はじっとそれを見つめる。これ以上出てこないでくれと思わず祈ってしまう。無駄とは分かっているけれども。
金魚が気配を察し、私の影の方に近寄ってくる。尾鰭を器用に操って、水中でひとところにとどまるその様がなんだかかわいくて、私は水槽を指でちょんちょんと突付く。

自分の髪を梳いていて思い出すのは、母のことだ。母もずっと髪が長かった。若い頃の写真を見ると、いつでも三つ編み二つに結っていて、それは腰まで届くほどだった。どうしてそんなにいつも伸ばしていたのかを聞くと、父親が長い髪が好きで、ちょっとでも切ると口をきいてくれなくなるほどだったのだという。「だから結婚したときは、あぁこれで髪の毛を自由に切れると思ったものだったわ」と母は笑った。しかし、そうもいかなかったのが現実で、父親から言われなくなったと思ったら今度は夫から切るな切るなと言われ続けたらしい。結局、私を産んだ前後に何度か短くしてみたものの、それでも母の髪は黒く艶々と輝き、豊かにそのうなじを飾っていた。私は母の髪の毛を眺めながら、神話の中に出てくる女の神様はたいてい、こんな髪の毛を湛えているのではないだろうかと思い巡らしたものだった。
その母の髪が今はもうない。病のせいですっかり変わってしまった。昔は母を見つめる時何より先にその豊かな髪が目に付いたけれど、今は、その大きな目が飛び込んでくる。細くなった頬、顎、それらの中で、目ばかりが大きくなって。それが切ない。とても切ない。いくら病のせいだといっても、それでも切ない。
インターフェロンの治療が一段落ついた翌日、母は久しぶりに美容院に行った。そして髪の毛を耳の辺りで短く切りそろえた。母の髪は痩せて痛んで、今は風に揺れることもない。いつかまたあの豊かさが取り戻せることがあるのだろうか。母のあの黒髪は、私の憧れだったのだ。あの濡れたような黒髪は。

朝の一仕事をしながら、想いは母へと傾く。母の髪から母の寿命へ。
寿命がもう定まっているというのは、本当に一体どういう感覚なのだろう。あと何年、あと何日、と数えることができてしまう命とは、どういうものなのだろう。これほどに早く肝硬変が進んでゆく前、母は孫の花嫁姿や曾孫の姿をあれこれ心に描いては私に語っていた。しかし、インターフェロンの治療を受けると決めた直後から、その話は一切語られなくなった。父ももうその話をしない。それまであれほどに「親不孝なお前のが見られなかったんだからせめて、孫の花嫁姿くらい見たい」と言っていたふたりだったのに。
そして思う。納戸にしまわれた母のウェディングドレスのことを。
母は手作りのウェディングドレスで式を挙げた。総レースの、それは本当に細かな仕事だった。一度だけ見たことがある、母のそのドレスは、納戸の暗闇の中、仄白く、浮かび上がるように見えた。触れようとして、でもあまりにそれは神々しくて、触れられなかった。いつか着てみたい、そう思った。
でも結局私はそれを肩に当てることもなく、過ぎてしまった。だからこそ両親は夢見ていたのだろう、孫が、私の娘が、それを着て花嫁になる姿を。今の私にならその気持ちが痛いほど分かる。
でも、彼女の、母の時計はもう、逆向きにしか動かないのだ。私たちのように前に動くのではなく、定められた時から一刻一刻、減ってゆく、その方向にしか動かない。もし奇跡が起きてくれたとして、それでも母は父はきっと、数えていくんだろう、時間というものを。
いっそのこと。いっそのこと、十年十五年がひとっとびに過ぎてくれないだろうか。そして今寝床ですやすやと眠る娘の花嫁姿を、どうにか父母に見せてやれないものだろうか。私はそんな、どうしようもないことを考えてしまう。そんなことできっこないのに。分かっている。分かっているけれども。
そう、分かっている。時間はどうしようもなく残酷で、容赦なく、誰にもそれを歪ませることなんてできない。

水遣りをしている最中にコガネムシを次々見つける。特にアメリカン・ブルーの茂る枝の下に群れていた。私は無言でそれを潰してゆく。固いサンダルの底でくしゃり、と。それは乾いた音を立てて無残に潰れる。潰れた姿を思わず見てしまいそうになるのだけれど、見てしまったら足が止まってしまうと思い、見ないよう見ないようにする。くしゃり、かしゃり、くしゃり。音が響く。私は今一体、幾つの命を潰しただろう。自分の花たちを守るために幾つの命を潰しているんだろう。でもこの足を今止めたら、私の花は間違いなく倒れてしまう。枯れてしまう。
そうして潰した蟲たちの亡骸を、私は水をぶちまけて押し流す。もしかしたらもう遅かったかもしれない、卵は土に産み付けられてしまっていたかもしれない。それでも。
濡れた廊下で、私はしばしぼんやりする。まだ誰もいない校庭。しずまりかえったその空き地は、何も言わず私をただ、見つめている。

ゴリゴリゴリゴリゴリマッチョ。いきなり後ろで笑い声がする。何言ってんの、と尋ねると、どうも運動会でそういうダンスをするらしい。「それがさぁ、隣がちょうどKなんだよね、まさしくゴリラなんだよー!」と言って踊っている。私と違い、ユニークな格好をいくらでもしてみせてくれる彼女は、私の気持ちが落ちているときの救いになる。いくら落ちていても、彼女のその、誰かを笑わせようとする強い力が、私を引き上げてくれる。助かった、私は今日も、彼女の姿を見つめながら、そう思う。
娘と再び玄関を出る頃には、校庭は生徒たちの姿でいっぱいになっている。応援団の子、リレーの選手の子、それぞれがそれぞれの役目を全うしようと必死だ。その姿に後押しされるように、私は階段を駆け下りる。
じゃぁね、それじゃぁね、いってきます、いってらっしゃい。一度歩き出した娘が私のもとに戻ってきたかと思ったら、ハグをしてくる。私も小さくハグを返す。
さぁ、もう時間だ。私たちは手を振って別れる。娘は学校へ。私は私の場所へ。今日はちょっと遠出をしなければならない。駅を三つ分自転車で走らなければ。私はペダルを漕ぐ足に力を込める。
さぁ今日も、一日が始まる。


遠藤みちる HOMEMAIL

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