2009年10月01日(木) |
夜じゅう回し車の音が響き続けている。あの勢いのよさはココアだろう。一時、二時、三時…うとうとしては、回し車の音に起こされ、私は何度も寝返りを打つ。娘がご飯のとき、ミルクとココアにいくつものひまわりの種をやっていたっけ。あれで景気づいてしまったんだろうか。そのおかげでこんなに元気になっちゃっておかげで私は眠れないのだろうか、そんなくだらないことを考えては打ち消す。じきに止むだろう、そう思い続けて気づけば朝の四時。もう眠るのは諦めた。いっそのことしっかり起きてしまえば、あの音も気にならなくなるはず。私はそうして身体をえいやと起こす。何故だろう、身体を横にしているときと起こしているときでは音の聞こえ方が違うんだろうか。身体を起こしただけで、ココアの回し車の音の呪縛から解放されたような気持ちになる。私が回し車を回すココアを覗き込むと、彼女は、なになに、といった顔つきでこちらを見やる。まったく。どうぞどうぞ、いくらでも回してください。私は苦笑しながら彼女に手を振る。 雨が気になってすぐ窓を開ける。あぁ、止んでくれたのか。私はほっとする。今日は娘の社会見学の日。昨日から娘があれこれ準備していた。私は水筒を用意するように言いつかっている。天気も大丈夫、これでよし。 徐々に光を湛え始める空。窓際の机で朝の一仕事を始める。ひんやりした風が窓から吹き込む。肌がぷるりと震え、でもそれはとても気持ちがいい。
友人と二人展の打ち合わせ。彼女との二人展は今度が二度目。準備することはだいたい分かっている。その確認。それと、彼女が見ておきたいと言った、私の出品候補のリストを前に、あれこれ話す。考えてみたら、もう十月になるのだ。すると、一月の展覧会まで本当にあと僅か。私たちはあれやこれや頭を突き合わせ、話し合う。 ふと。人との縁ということが思い浮かぶ。彼女との縁も不思議なものだ。インターネットに私が開いたサイトに、彼女が訪れてくれた。それが最初のきっかけだった。それから一体何年が経つだろう。確かもう十年は経つ。その間、音信が途切れたこともあった。しかし私たちは今再び一緒にいる。それぞれに、紆余曲折を経て今に至り、そしてここに在る。 私たちの命は有限だ。星の光にしたら一瞬の瞬き。一瞬で燃え尽きる命。でも。考えてみれば無限のものなど在るのだろうか? この世に存在する全てのもの、私の知る限り全てのものが有限だろう。そんな限りある時間の中で、私たちはどれだけ何を共有できるか、なんだろう。時に離れ、時に交差し、時に共有し。そんな綾なすものたちの中で私たちは生きている。永遠はないけれど、それでも、私たちが今ここに在ったことは、間違いなく真実だ。悲しむよりそれをいとおしんで慈しんでいけたらいい。
知人がこんなことを言った。親孝行をしたいと思うなら、いつまでもその親の子供でいることだ、と。その意味が、言われたその時は分からなかった。親でいることの重さ、子供でいることの重さの方が先に立ち、その哀しさの方が大きく見えた。 今頃多分実家では、父母と弟とが今後のことを話し合っている最中だ。父は母は、そして弟は、今それぞれに何を思っているのだろう。私は彼らの顔を順繰り思い浮かべながら、彼らの心を思う。それは決して私には分かりえないことだけれども、それでもゆっくり思い浮かべる。私たちの辿ってきた道を思い浮かべる。 私も弟も、それぞれにそれぞれの一時期、親との縁を絶っていたことがある。いや、あれは、絶たれたのか、それとも絶ったのか。どちらだったろう。もうそれは定かではないが、それでもそれは在ったのだった。 私が知っている限り、弟と父母の絶縁状態は、五年ほどだった。その間、母は時折弟に連絡を取ったりしていたが、父は見事に絶った。弟が何年かして頭を下げてきたときも、最初は拒絶した。何を今更と追い返した。その間に母が入り、少しずつ、本当に少しずつ縁が戻ってきたのだった。あの頃、彼らは何を思っていただろう、それぞれに。 私が絶縁していた時期。その時間は正直はっきりとは思い出せない。私は大学を卒業すると同時に家を飛び出した。その前からぎくしゃくしていた関係を、放り出すように私が家を出た。そして決定的だったのが私の事件だった。上司から暴行されたあの事件、そしてその一年後病院に駆け込んだ、その私の治療に立ち会うことを、父母が拒絶した、その時、縁は切れた。そこから一体何年という時間をそれぞれに過ごしたんだろう。私の時間はまだしも、父母はどんな思いで過ごしていたんだろう。 私が子供を産み、育て始めた直後倒れた、その時、母が駆けつけてきてくれたのだった。それまでのこと何も言わず、孫の世話をしてくれたのだった。あの時自分がそれをどう受け止めたか、私は今思い出せない。ただ、思い出すと今は涙が出る。ただ涙が出る。あの頃表に現われたのは母だけだったが、きっとその後ろで父もいろいろなことを思っていたに違いない。 私が離婚した折、一度だけ母が、うちに来たらいいのに、と言ったことがあった。それを私は、どうしても受け入れられなかった。本当は。そうしてしまえば楽だと思った。でも、そうしたら私は彼らに完全に寄りかかってしまうようで。それができなかった。今思えば、なんて自分は幼かったのだろうと思う。でも。幼少期から父母との関係で悩み続けてきた私には、彼らをどう受け止めていいのか、どうしても分からなかった。今ならどうだろう? 今なら。いや、やはり、共に一つ屋根の下で暮すことはしないんだろう。少し離れた場所で暮しながら、それぞれに思いやる、その距離が、多分私には必要なんだと思う。少しだけでも離れているからこそ、私は彼らを思いやることができる。私には、まだまだ度量が足りない。 父母は私にとって、多分大きすぎた。私は彼らを求め過ぎた。だからすれ違ってしまったような気がする。確かに彼らからの虐待はあった。でも。じゃぁ私が彼らを傷つけていなかったかといえば、それは違う。私は私で彼らをきっと傷つけていた。間違いなく傷つけていた。今になればそれらは多分、おあいこだった。 おあいこだった。と今自分で書いて驚いた。あぁ私は今そう思えているのか、と改めて気づいた。 多分私と父母は、ようやく親子になれているんだと思う。親と子。なんて遠く、でもなんて追い求めた言葉だったろう。 そう、いつだって私は父母を愛していた。愛していたからこそ哀しかった。辛かった。でも多分父母も辛かった、哀しかった。痛かった。お互いにそうだったんだ、きっと。 「どうやったら親孝行ってできるんだろう」。ぽつりとそう言った私に、知人が言った言葉。「親孝行をしたいと思うなら、いつまでもその親の子供でいることだ」。今もその真意は分からない。分からないけれど。 私は間違いなく今、彼らの子供だろう。そして私にとって彼らは間違いなく唯一無二の親なんだ。それだけは、分かる。
気づけばもう家を出る時間。娘が早く早くと私を急かす。あれこれ思い巡らしていて、時計を見ることをすっかり忘れていた。私は足元にある鞄をひったくるように肩にかけ、玄関を飛び出す。 外は十分に明るい。そして十月なんだ。空気がひんやりと気持ちいい。ママ、あそこまで競争だよ!と娘の声が飛んでくる。走り出した娘の後を私が自転車で追いかける。娘の背中を見つめながら、私は、私と娘の間にも、いつか確執や葛藤が生まれるのだろうか、とそんなことを思う。それでも。 多分それは乗越えられないものじゃぁない。どれほど時間がかかろうと、いつか、お互いに受け入れ乗越えていくんだろう。それぞれの形でもって。 いってらっしゃい、いってきます。互いに手を振って別れる交差点。娘は水筒を下げて学校へ。私は私の場所へ。
今、鳥が空を渡る。 |
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