2009年10月02日(金) |
気がつくと雨。粉のような雨が辺りに散っている。昨日しまいわすれた洗濯物がベランダでしっとり濡れている。もう一度洗い直しだな、と思いながら私はそれをそっと取り込む。 眠れたような眠れなかったような、多分それは夢が多かったせいだ。細切れの夢にたくさん襲われた。どうあってもありえないような話ばかりで、その夢を辿るのに少々疲れた。よほど体が強張っていたのだろう、知らないうちに握り締めていた右手の爪が、掌に食い込んで痕を作っている。 こんな時、ココアとミルクの呆け顔は、私をほっとさせてくれる。近づくと、何、何々、といったふうに鼻をひくつかせ、近づいてくるその顔。潤んだつぶらな瞳。手に乗せると忙しげにくんくん歩き回るその仕草。少しずつ少しずつ、自分の体の余計な力が抜けてゆくのが分かる。 細かい雫をつけた薔薇の葉たちは、生き返ったようなみずみずしい緑を見せている。咲いているのは一輪の白い薔薇。灰色の空の下で咲くその花の色はあまりに鮮やかで、私の目を射る。その傍らで、アプリコット・ネクターが新しい蕾を膨らませている。ほんのり杏色に染まった花びらが、もう付け根からちらり見えている。そっとそれを指でなぞれば、柔らかい、花びらの感触が伝わってくる。 多分、今一番元気なのは、かつて枯れかかった、ホワイトクリスマスとマリリン・モンローだろう。新芽を次々に出しているその姿からは、かつてのあのぼろぼろになった姿はもう想像できないほど。幹は徐々に太くなり、こんもりと茂っている。 緑に囲まれて、それでも灰色の空の下、こんなに疲れている自分は何なんだろう。
朝のバスは込み合っている。その中で、ひとり、足を広げて二人分の席を取って新聞を読んでいる男性。その隣の女性は、どうも足を踏まれているらしく、しょっちゅう身体をずらす。それに耐えかねた隣の男性が、いきなり怒鳴り声を上げる。あんた、いい加減にしないか、どれだけこのバスが込み合っているのか分からないのか。でも新聞を広げた男性はいっこうに気にしないのか、黙々と新聞を広げたまま。バスの中に沈黙が広がる。誰も何も言わない。誰も視線を合わせようとしない。ただ空気だけが刺々しく、肌に突き刺さる。 結局真ん中に座っていた女性は途中で立ち、吊革につかまる。そうしてバスは客を乗せて駅まで走る。 私は。ふつふつと自分の中に怒りが湧いてくるのを感じていた。でもそれを、何処にぶつけられるわけでもない。だから私の中に、怒りは蓄積される。
昨夜弟が訪ねてくる。新しい仕事を探す傍らで勉強を始めるつもりらしい。私は彼の言うものに当たるような本を、あれやこれや探し出す。本棚にあれもあった、これもあったと引っ張り出すと、さすがに弟も苦笑い。しばらくその本を間に話をする。 お茶を出すのも忘れて私が話していると、娘が、ひょいと麦茶を弟に渡してくれる。おお、ありがとう、と弟が受け取る。私は、目が覚めたような気持ちになる。娘に、こんな気遣いができるとは思っていなかった自分がいて、頭を殴られたような気持ちになる。娘を見くびっていたのか、私は。そんな気持ちにさせられて、嬉しいやら情けないやら、気持ちががたがたと交錯する。 一時間ほどして帰ってゆく弟の後姿を見送りながら、私は、生活するということについて思い巡らす。生活するということはあまりに当たり前のことだけれども、それはなんて、重たいのだろう。うまく回っているときはいい、でも、一度躓くと、雪崩のように崩れゆく。自分もかつてそうだった。そして今もまだ安定なんてしていない。振り子のようにいつだって揺れ動いている。たった一点の、その点に、片足で爪先立って、両手を広げて何とか落ちないようにバランスをとっているようなものだ。もし今下を見たら私は堕ちるだろう。まっさかさまに墜落するだろう。そして、その後には、真っ赤な花が咲くのだ。いや、どす黒いといった方がいいかもしれない、そんな血の花が。 だから今は見ない。決して見ない。下は向かない。 私は目の中に残った弟の背中の残像を心で撫でながら、自分にそう言い聞かせる。
いろんなことが不安なんだと思う。だから今、あらゆるものが歪んで見えてしまうのだろう。私は、自分の胸に手を当て、とりあえず深呼吸してみる。不安がっても仕方がないのだ。来るものは来る。そこでできることを私は為すだけだ。ただ、それだけだ。
昨日の晴れ間を思い出そう。きれいに晴れ上がった空の下、私は少し汗ばみながら自転車を漕いだ。娘の好きな明太子おにぎりも握った。仕事のメールも二件舞い込んだ。用意した二人展用のポストカードの、展示の順番も決められたし、DMの下準備もできた。空は何処までも澄んでいて、そよぐ風が肌に気持ちよかった。世界は丸く、ゆっくり回っているように見えた。ゆっくりゆっくり。 不安に襲われるときほど、昨日できたことを思い出そう。昨日あった小さな幸せを数えてみよう。そしてそれを、こくりと呑み込んでみよう。 それでも足りなければ。いっそのこと、泣き喚いてしまえばいい。誰もいない部屋で、こっそり、ちょっとの間だけ、思いっきり泣き喚いてみればいい。多分、少しはすっきりする。
ジョシュ・グローバンの、D'ont Give Upが偶然にもステレオから流れてくる。いや、大丈夫、諦めるつもりなんてこれっぽっちもない。私は容易に転ぶが、それでも、何度だって立ち上がる。転んで倒れ伏したままでいるつもりはこれっぽっちもない。そりゃ、倒れ伏すことはあるだろう、それでも、必ず自分は立ち上がる。そして生きることをそこからまた始めるんだ。 今できることを探そう。そこから始めよう。ひとつひとつ、そうやって片付けていくしかない。
雨が降っている。いつのまにかみっしりと雨が降っている。窓の外、まるで線を描くように、まっすぐ雨が降っている。雨線に満ちた世界はそれでも、今日もゆっくりと回っている。私を乗せて、弟を乗せて、娘を乗せて、父母を乗せて。大切な大切な、友人たちを乗せて。 |
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