見つめる日々

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2009年10月03日(土) 
お馴染みの回し車の音が、夜じゅう響いている。カラララ、カラララ。勢いよく回り続けるその音は、夢の中に入り込んでくる。カララララ、カララララ、いきなり現われた何百本もの脚が大群になって、こっちにやってくる。カララララ。そんな音、脚が出すとは思えないのに。まさかブリキのおもちゃというわけでもなかろうに。それでも脚がカララと音を響かせこちらにやってくる。逃げようか、どうしようか、と思っているところで目が覚める。
窓の外を見やれば、地平線に沿って斜めに流れる雲。まるで傾いた渦のように、左へ左へと流れる。それはまるで、燃え広がろうとする炎のようで、私はしばし見惚れる。砂丘で焚き火をしたとき、確かこんな感じだった。あの時、真っ暗な闇の中、私たちの真ん中で火は燃え続けたのだった。轟々と音を立てて寄せる波が、まっすぐに広がっていたっけ。水平線は闇に溶け、目を凝らしても見ることは叶わなかった。朝は何処かと途方に暮れるほどの闇だったけれど、彼女らの息遣いが火の向こうに感じられ、それだけでもう安心できた。大丈夫、と思えた。
大きく窓を開け、私はベランダに出る。強い風の中髪を梳き、薔薇を見やる。ゆらゆらと揺れる伸びた枝の先に、二つの蕾。葉はつやつやと輝き、これから来るだろう朝陽を待っている。

気持ちがおかしかった。朝からおかしかった。バランスがとれないというのは多分こういうことなんだろうと思うほど、私は妙だった。どんどんどんどん、足元から崩れてゆく、そんな感じだった。
何をしてもその気配から逃れられない。何を思い心を切り替えようとしても逃れられない。このままじゃ本当に崩れてしまう。そう思ったとき、或る友人と声がつながった。
こういう状態の時、正直あまり人と会いたくない。自分の状態が人に与えてしまう影響がどんなものか、考えてしまうからだ。不安が全くない人などいないだろう。そんな中、自分だけ悲鳴を上げて助けを求めるのは、なんだかおかしいような気がしていた。大丈夫、自分は大丈夫、何とかなると思いたかった。誰だって何かしらの不安を抱え生きているのだから、自分だけじゃないのだから、自分のことは何とか自分で始末をつけたい、そう思っていた。でも。
彼女が、そっち行こうか、と言う。いや、こういう状態で会うのはよくない気がするからと一旦断った私に、大丈夫だよ、と彼女が言う。そして、今から出るね、と彼女が言う。私はありがとうと答えながら、それでも、迷っていた。
彼女は。高校時代に知り合った友人だ。でも、途中長いこと疎遠になっていた。いろいろなことがあった。私たちの間にはいろいろなことがあった。これでもかというほど汚いことばかりがあった。彼女から差し出されるものはいつもその後ろに裏切りや嘘が潜んでいた。
彼女と再び出会い、縁を取り戻してから、そういったことはすべて、流してしまおうと私は思った。でも。もしかしたら何処かで、またそういうことがあるかもしれない、と思っていたのかもしれない。
時間が過ぎてゆく中で、私は、彼女が来なくても何も言うまいと思った。来なくて当たり前、と思おうと思った。今までのことを考えたら、それは当たり前だったからだ。彼女を一晩中待ち続けたことが何度あったことか。だから、今回彼女が行くよと言っても、その気持ちだけでもう十分だと思おうと思っていた。でも。
彼女は、来た。

多分あの時、私はへろへろの状態だったと思う。もうどうしようもなくなって、自分で自分を支えることができなくなりかかっていて、倒れかけていたと思う。そんなところに彼女がやって来た。
そして、いつもと変わらぬ顔で、淡々と、私と向き合った。
彼女と、言葉を交わしながら、少しずつ浮上していく自分を、私は感じていた。幻覚に囚われ、足元をすくわれそうになっていた私が、少しずつ少しずつ、現実を取り戻してゆく、そんな感覚だった。足元の蟻地獄はすぅっと消え、土が戻ってきた。足を踏み出してもへこむことのない土が足元に戻り、私は、一歩踏み出した。大丈夫。もう、歩ける。
それは瞬く間の数時間だった。最近食欲がないという彼女はそれでも、一生懸命目の前のサンドウィッチを食べ、その間に彼女は自分の身の回りの話をし、私もその彼女に自分の話をし。時間は瞬く間に流れた。
でもそれは、私に自分を取り戻させるのに、十分な時間だった。それを、あの彼女が、私にくれたのだった。

三つ子の魂百まで、という言葉がある。それはそれで真実なのだろう。確かにそうだと思うことが多々ある。自分自身に照らし合わせても、それは言える。
でも、同時に、人は変わってもゆけるのだろう。経てきた体験をどう受け止めどう受け入れてきたのか。それによって人は、いくらでも変わってゆくのだろう。私は、今隣に座る彼女の横顔を見つめながら、強くそう思った。
あれほど自分を嘘で塗り固めていた彼女が、今、そうではない姿で私の目の前にいる。自分だって疲れているだろうに、それでも彼女は今私の隣にいてくれる。
あれほどの彼女が。
そのことが、私の心をいっぱいにした。あぁ彼女も再生していっているのだなぁということを、実感した。
そして、もし明日彼女が、私に刃を向けても、私は多分、それを受け入れるだろうと思った。そんな彼女を私は、きっと抱きしめようとするんだろうと思った。

ありがとう。じゃ、またね。そう言って別れた。彼女は去り、私は家に戻る。そういえば、彼女がこんなことを言っていたっけ。どうやって休んでいるの? それに対して私は、うまく言えないけれども日記を書いているときかもしれない、と応えた。ひとり日記を書いているときが唯一、休んでいる時間かもしれない、と。横になることや眠ることに罪悪感を覚える私は、寝逃げということができない。だから、起きた状態で休む術を私は身につけた。それが、ひとり日記をしたためる、という術だった。
どうやって休むの? どうやって気分転換するの? そういった彼女の言葉が改めて思い起こされ、私はふと思い立ち、風呂場に立つ。思い切り水を出し、頭からかぶった。そして、長い髪を思い切り洗ってみた。ひとつ、ふたつ、みっつ、よっつ。何かが流れ落ちる。またひとつ、ふたつ、みっつ、よっつ、何かが剥がれ落ちた。そうして気づけば、私はまっさらになっていた。
それはとても、心地よかった。

彼女にメッセージを送る。今日はありがとう。あの後髪を洗ったよ。とてもさっぱりした。また会えるのを楽しみにしている。そして彼女から返事がある。こちらこそお土産ありがとう。またつらくなったときはいつでも連絡してね。
短いやりとりだったけれども、もうそれで十分だった。

彼女の嘘に、泣いた日があった。彼女の裏切りに泣いた日があった。そういう時間が、かつての私には山ほどあった。でもそれはもう、過去なのだと、今改めて思う。
ごめんね、あのときはごめんね、と再会の直後そう言った彼女の言葉が、どれほどのところから発せられたものなのか、私にははかりしれない。でも。
またここから始まるのだな、と。今改めて、そう、思う。

おにぎりを頬張る娘をそれでも急かして、私は出掛ける準備をする。ミルクとココアの水も替えた。新しい餌もやった。これで一晩大丈夫だろう。
徐々に徐々に明るくなってくる空。今日裏の校庭では幼稚園の運動会があるらしい。朝からいろいろな人が出入りしている。そんな様を、一輪咲いたアメリカン・ブルーが、ちらちら揺れながら見つめている。
玄関を開けた途端、降り注ぐ明るい陽光。私たちは手をつなぎ、階段を下りる。マンションを出たところで空を見やれば、もうあの、地平線辺りに渦巻いていた雲はなく、薄灰色の雲が空に広がっている。
さぁ、今日も一日が始まる。今日という一日が、始まってゆく。


遠藤みちる HOMEMAIL

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