見つめる日々

DiaryINDEXpastwill HOME


2009年10月08日(木) 
嵐が来ている。それは窓を叩く風の音で分かる。気配に起こされるようにして私は身体を起こす。カーテンを開け窓の外を見やる。街路樹はもう上下左右からぐるぐると風に巻かれている。それと共に舞い上がる雨。見事としか言いようがない。
時々雲がぱっくりと口を開ける。そこから零れ落ちる光。そして再び口は閉じられ、辺りは灰色の世界に染まる。
揺れるのは街路樹だけではない。薔薇も四方に揺れる。支柱を立てておいてよかった。幸運なことに今蕾は小さな三つだけ。今のところこれなら大丈夫だろう。
ココアがまた回し車をカタタと回している。でも今日はその音より、外の嵐の音の方がずっと大きい。びゅぅんびゅぅんと吹く風の音が止むことは、ない。

昨日も雨だった。雨の中バスに乗る。一つ手前の駅で降り、私が歩き出すのは初めての道。この道ができたことは知っていたが、歩いたことはなかった。雨に濡れるまだ若々しい街路樹。その足元に種類もまばらな花木たち。でもみんな風と雨に打たれてしなっている。絡まった枝々が痛々しげに伸びている。薄桃色の花もアスファルトにへばりついてしまってすっかりぐしょぬれ。せっかく咲いたのに、手を伸ばしかけて、私は止める。今私がもし一つを掬い上げても、他の者たちは変わらない。つまりこの場所は何も変わらない。それならいっそ、この空が晴れるのを待つ方がずっと、いいような気がした。この嵐だってじきに止む。通り過ぎる。
そうして歩道橋を越え、信号をひとつ越え。待ち合わせの場所へ急ぐ。

現われた友人は、寒い寒いと言いながらあたたかいカフェオレを啜る。何を話すという目的があるわけではない。ただ会う。それだけ。でもその中で私たちは、本当にたくさんのことを話す。
それぞれの娘たちのこと、自分の心のこと、自分の周辺の最近あったできごと、そこから感じたこと、考えたこと、引きずり出される過去のこと。とりとめもなく私たちは話す。
そういえばこんな短編があった。桃を食べながら中絶の書類を書こうとして、桃の汁がぽとり、その書類に落ちるかするのだった。その染みはまるで、今の自分を象徴しているかのようで、いつまでもいつまでも、それを主人公は見つめているのだった。そういう短編があった。中沢けいの「手のひらの桃」という、数十ページの作品だ。
彼女はそれを、シュールだね、と言った。私は。痛いと思った。たった数十ページの作品からの感じ方でも、それぞれに違う。当たり前のことだけれども、私はそのことに、改めて心が震える。そんな、それぞれに違う人間がこの世界で渦巻いて生きている。そのことが改めて感じられて、私の心はぶるりと震えた。
それからも私たちの話は続く。ロルカの詩はいいね、ラディゲやパウル・ツェランもいいよね、日本人なら長田弘もいいなぁ、私、吉原幸子も好きだよ、茨木のり子だったっけ、そういう人いたよね、その人も好きだなぁ。
途中から、私の体がちょっとおかしくなる。発作の前触れだ。背中半分から上に熱がこもってくる。そしてぼおっとしてきて、やがてぐらぐらと体が揺れる。そんな予兆。そのことを彼女に話す。対処方法はないのかというから、この発作に関しては対処方法が見つからないことを話す。発作が起きたらとにかく手近にある何かに捉まってやり過ごす、それしか、今のところ術がないのだ。頓服を飲んでも、効かない。こればかりは、仕方がない。

それにしても。この半年で、彼女はぐんと大きくなった。頑丈になってきた。その彼女が、下の娘をいつ手元に呼び寄せようかと、その時期を今考えているのだという。自分の体調、心調、それらを考えながら判断しなければならない。すぐにできることじゃぁない。今まで何度もそれで失敗している彼女は、また失敗したときのことを考えている。でも。
何だろう。それでも光が見えるのは何故だろう。彼女の道に光が射して見えるのは何故だろう。それだけ彼女が、回復してきた証なのだろうか。
焦ることはない。まだその判断を下さなければならない時期まで半年はある。十分考えてすればいい。そんなことを私たちは話す。
自分のテンポで、歩いていけばいい。ひとつひとつ、できることから積み重ねていけばいい。そうすれば、きっと、道は拓ける。

彼女と別れてから、一旦家に戻り、おにぎりを用意する。そして私は再び娘を迎えに出る。いつもの場所での待ち合わせ。娘が駆け足でやってくるのを見つける。何かあったな、と思い、黙って彼女の言葉を待っていると、彼女が話し出す。ねぇねぇ、ママ、今日、算数が一番早くできた! よかったじゃん。でね、先生とRっていう子が、解き方で競争したんだよ、先生が説明しようとしてた裏技をR君が先にやっちゃったから、先生、やられたーって倒れる真似したりしたんだよ。そうなんだ、楽しかったね、それなら。
娘は話しながら、昆布のおにぎりを食べている。家に帰ったらもう一つ、明太子おにぎりと野菜スープを食べる。でも塾がある日は、それで夕飯は終わり。それ以上のことができない。それが正直、不憫でならない。娘は文句一つ言わないけれども。

小学校は嵐のため休校になった。昨日のうちに連絡網が回ってきた。起きた娘に、ママは仕事に出掛けなくちゃならないから、お留守番、頼むね、と告げる。娘はきょとんとしている。そりゃそうだろう、娘をひとり家において出掛けるのは、多分これが初めてだ。そんな日が来ることは分かっていたが、それが今日だとは誰も思っていなかった。
ママ、台風の中でかけるの? うん。じゃ、テレビ見なくちゃ。娘が急いでテレビをつける。台風情報が流れている。娘はあっけらかんと、あぁ、午後になったら向こうに行くんだって、じゃぁ大丈夫だね、と言う。そう、大丈夫なの? じゃぁママ、行かなくちゃ。分かったー。早く帰ってきてね。うんうん、できるだけ早く戻るよ。
そう言って玄関を開けて娘が一言、うわぁ、雪みたいだ、と言う。私も目の前の景色を見やる。そう、ここにいて見ていたら、雨は雪のようだった。雪のように舞っていた。風は四方八方から吹き荒び、雨はそれに乗ってあらゆる方向に舞っていた。美しい。そう思った。
じゃ、ね、戸締りちゃんとしてよ。分かったー。

私はそれでも心配で、でも出掛けなければならない現実に後ろ髪を引かれながら、何度も振り返る。玄関は閉まった。私は階段を下りる。そしてちょうどやってきたバスに飛び乗る。バスの中で、振替乗車券が出ているとのアナウンスが流れる。高台から坂を降りてきたバスの周りには、大きな水溜りができている。それを跳ね散らしてバスは駅へと向かう。
昼過ぎまで。娘はどんなふうに過ごすのだろう。大丈夫だろうか。何もなければいい。まだ私の心は娘のもとにある。それを引きちぎるようにして私は傘を広げ歩き出す。
早く終わらせればそれだけ早く帰れる。大丈夫、もうそのくらい自分で過ごせるようになっている、娘は大丈夫。自分に言い聞かせ、私は足を速める。
人がまばらな駅構内を横切り、一番端の乗り場に行く。電車に乗り込んでしまえばもう、行くしかない。
薬は飲んだ。頓服など一式鞄に入っている。忘れ物は、ない。大丈夫。
その時、携帯電話が鳴る。慌てて出ると娘だ。どうしたの、と問うと、ママ、今大丈夫? 怪我したりしてない? と言う。大丈夫だよ。もう駅に着いたし。そう言うと、娘は心底安心した声で、じゃぁ大丈夫だね、と言う。それだけだよ、じゃぁ頑張ってね、娘はそういって電話を切った。
大丈夫。そう、私は大丈夫。だから、できるだけ早く仕事を切り上げて、彼女のところへ帰ろう。私を待っていてくれる彼女のもとへ。
私は足を進める。駅の外、嵐はびゅうびゅうと風を唸らせ、吹き荒れている。


遠藤みちる HOMEMAIL

My追加