2009年10月23日(金) |
聞いた覚えのない音が、がりりがりりと部屋に響く。何だろうと思い身を起こす。音が出る場所といったらミルクとココアのところだけ。私は恐る恐る近づく。すると。がりり、がり、がりり。犯人はミルク。籠を齧っているのだ。私と目が合うと。一瞬動作が止まる。しかし、彼女は再び籠を齧り始める。籠齧っても出れないよ。私が言うと、くるりと身をよじって今度は入り口でなく水飲み場の網の方へ。そこでもがりり、がりりと網を齧る。ねぇ、無理だよ、出れないよ。私は苦笑して言う。何をそんなに、と思ったが、でも、もしここに娘がいたら何と言うだろう。きっと間違いなくすぐに籠を開けて、手に乗せてやるんだろう。私は。ちょっと今は遠慮したい。と思って、ふと思いつく。もしかして、君、月のもの? それでそんなに苛々してるの? まさか、そんな? しかし、犬も生理は来る。猫も生理が来る。ハムスターは? 目覚めから悶々としながら、私はいつものようにベランダに出て髪を梳く。梳きながら薔薇を見やる。大丈夫、新芽は元気だ。そしてホワイトクリスマスの蕾が、もうすぐ開こうとしている。まさにぷっくらと膨らんだそれは、今か今かと開かれる時を待っているかのよう。私は指でそっと蕾を撫でる。大きく咲くんだよ。声をかけながら。 挿し木たちもそれぞれ、葉を出し始めた。早いものはもう四枚、新しい葉を開かせている。でも。油断は禁物だ。葉が出たからといって根もでているかといえばそうじゃない。根はまだまだ先だ。だから根付くまでは、しっかり見守っていてやらないと。 先日から、プールが気になり始めている。私は玄関をそっと開け、外に出る。もう誰もいなくなったプール。当分使われることのないプール。それでも。しんしんとそこに在り。かつて水泳部に所属していた中学の頃、プールの清掃は当たり前のことだった。季節が来れば、苔や泥に塗れたプールを、しこしこ磨いた。体中汚れるけれども、それは何処か、特権のようで、気持ちがよかった。何よりも、誰よりも先にプールに入れる、というのが、心地よかった。そのくらい水が好きだった。 今朝のプールは、微風に吹かれ水面が細かく震えている。細かく細かく震えながら、夜明けを待っている。東の空は一面雲に覆われ、朝焼けは見えそうにない。それでも、水は待っている。光射す時を。 アメリカン・ブルーは今のところ元気だ。こんもりした茂みも何もなくなってしまったけれど、それでも、今、新たな芽を出そうと、力を貯め込んでいる。葉の色艶も、台風の後よりずっと瑞々しくなった。もっと早く気づいてやっていれば。今更ながら悔やまれる。だから祈る。このまま育ってくれますように。再び茂ってくれますように、と。
ママ、コンプレックスってなぁに? コンプレックス? うん。辞書で引いてごらんよ。えー、めんどくさい。そう言わずに、ほら。無意識の中にあって行動を妨げるものってあるけど。無意識って何? 無意識、うーん、気づいていないところ、かなぁ。普段意識してない部分のことかもしれない。人間ってさ、脳みそ持ってるでしょ、脳みそを使って考えたり計算したりするでしょ。うん。でも、実は、その脳みその半分も普段使ってないんだって。そう聞いたことがあるよ。へぇ、そうなんだ、じゃぁ意味ないじゃん。意味ないって、うーん、でも、脳みそないと、何も覚えていられないかもしれないし、考えたりすることもできなくなっちゃうかもよ。それは困るけど。でも、使わない部分があるんじゃもったいないじゃん。そうだねぇ、でも、きっと、そういうところにもいろんなものが蓄積されてるんじゃないの? だからそれだけ、無意識の部分が広いってことなんじゃない? ふぅん。まぁママ、医者でも学者でもないから分からないけど。ふぅん。で、何でコンプレックスなんて聞くの? Kちゃんに、コンプレックス何?って聞かれたから。へぇ。で、なんて答えたの? Kちゃんは背が低いことって言うから、私は太ももって言った。ふ、太ももですか、それならママもコンプレックスだなぁ、このぶっとい太もも。えー、ママはいいじゃん、もう大人だもん。私なんて、身体検査の後、体重こんなにあるの、とか、いろいろ言われた。すんごい嫌だった。みんなががりがりすぎるんじゃないの? あんまりがりがりだと、巨乳になれないよ。えー。巨乳になるのが夢なんでしょ? いやぁ、それはもう夢じゃないけど。ふぅん、まぁでも、がりがりより適度にふっくらしてる方がいいよ。そうかなぁ、それでも、太もも、やだ。まぁそれは、ママの娘だから諦めな。やだぁ。 コンプレックス。娘の年頃からもう、そんなことを気にするのか、と思ったが、私も確かにもうその頃から、コンプレックスはあった。当時は目だった。目が大きいのは生まれつきだったが、私の真っ直ぐ見てしまう目が、友人たちにいつも指摘された。怖い、だとか、恐ろしいだとか、果ては見るなよと目を叩かれることもあった。要するに目つきが悪かったんだろうと今は思う。でも当時は、どうしてそんなこと言われたされたりするのかが分からず、悩んだ。ただふつうに見ているだけなのに、なんでみんな怖いとか言うんだろう。見るなよって言うんだろう。泣きたいほど悩んでいた。それで俯けたらよかったのかもしれないが、私はどうしても俯くことができず、いつでもやっぱり真っ直ぐ相手を物を見てしまうのだった。中学になり、目つきのことでやはり先輩からつつかれ、いじめられた。それでも下を向けず、それどころか、私は、反発するようになった。私の目の何処がいけないんだ、普通に見てるだけじゃないか、おまえたちが悪いんだ、と、開き直るようになってしまった。今考えれば、それは単に、負けん気が強すぎただけの苦笑話なのだが。 そんなこともあったなぁと私が思い出していると、娘が唐突に言い出す。ママは自分の顔で何処が一番好き? え? 好きなところ? うーん。目、かな。あ、おんなじーー! 娘はそう言って喜んでいる。一方私は。かつてのコンプレックスだった目を今は好きだと言う自分に、心の中苦笑する。そう、今はもう、コンプレックスとは感じていない。自分の目つきも何も、それは多分自分が営んできた培ってきた時間の中で育まれたものなんだろうと、受け容れている。 娘もよく、目つきが悪いとか、ガンつけるなよと人からちょっかいを出される。それでも、かつての私とは逆にその目を好きだと言う。この子はどんな娘に育つのだろう。私はふと思う。この世に生まれ堕ちたその瞬間からもう、別々の道を歩んでいるとはいえ、本当に私たちは違う。似ているところはもちろんあるけれど、それでも違う。その違いが、私には面白い。太い太ももをコンプレックスといい、ガンつけるなよと小突かれる目を好きだと言う娘。君の将来は、どんなふうになっていくのだろう。母は楽しみでならない。
いつものより早く家を出る。そして一ヶ月ぶりに訪れる街。道を往く人たちには外国人が多く混じっている。ここは彼らの住む場所でもある。丘の上には彼ら専用のアパートがあるくらいだ。登校する子供たちもたくさんいる。朝練でもあるのだろうか。みな、大きな鞄を背中に掛けている。その子たちが、横断歩道を渡ろうとした途端、信号が点滅し始める。二、三人は走って渡ろうとする。それを引き止める子がいる。結局彼女らは、笑いながら戻ってきて、信号を待つことにする。その光景がなんだか微笑ましくて、私はつい、笑みを浮かべてしまう。 まだ少し時間がある。私は川沿いに走ってみる。かつてここには不法投棄されている船がごまんとあった。今にも沈みそうな、いや、沈みかけた船体が、綱に繋がれ置きっぱなしにされていたりもした。私はその船のある風景が、実は好きだった。もうどうやっても人が乗ることのできない船、ぼろぼろに崩れかけた船、それでも必死にとどまろうとする船を、じっと見つめるのが好きだった。今はもう、見ることはできない。整えられた川には、整えられた風景が横たわり、私の心をくすぐることはない。だから私は、そのまま走りすぎる。 この角を曲がり坂を上りきれば、港を一望できる場所がある。私は自転車を降りるのが悔しくて、ギアを変えながら必死に上る。息も切れ胸がぱんぱんになったところで、ようやく到着。もう何年も来ていなかったのに、身体は道を覚えているようで、自然、その場所へ辿り着く。何処からか汽笛が響いてくる。工場の煙がもくもくと上がっている場所もある。山積みになった色とりどりのコンテナが、朝陽を浴びて輝いている。高速道路がうねうねと絡み合い、あちこちに延びている。海の入り口では、幾隻もの船が行き来している。そして海は。 濃灰色をして横たわり、全てを受け容れているかのように見える。何もかもあるがままに、と、黙って受け容れているかのように。私はその様を、じっと見つめる。あぁ、こんなふうになれたら。 さぁそろそろ時間だ。戻らなければ。今度は坂を下りるだけだから楽チンだ。私は一直線に坂を下りる。こんな時は車よりずっと速い。ブレーキはぎりぎりまでかけず、そのまま一直線。 通りには人が増え、制服姿の娘たちも増えた。朝の風景だ。そしてみな、この季節、上着を羽織ったりマフラーを羽織ったり。モノトーンの波が街を往く。シークレットガーデンのLore of the Loomが私の耳元で流れ始める。街の色より少し明るい音色。明るいリズム。それを聞きながら私は目的地へ走る。あともう少し。と、甲高い声がして私は振り返る。今、鴎が三羽、旋回してゆく。 |
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