見つめる日々

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2009年11月14日(土) 
淡雪のような雨が降っている。差し出した掌に、ふわふわと触れる雨。雨粒にさえなりそうにないその儚さ。街路樹も薔薇も、しっとりと濡れている。
マリリン・モンローの蕾が開き始めた。ほんのり染まった花びらが、少しずつ少しずつ綻び出している。灰色の空の下でも、迷わず真っ直ぐ天を向くのは何故なんだろう。もしこれが人だったら、迷い道に入り込んでしまいそうなものなのに。彼らは迷わず、真っ直ぐに天を向く。どんな荒れた天気に晒されようと、彼らに迷いはない。
顔を洗い、化粧水をたたきこむ。少し寝不足な目は腫れぼったい。ちょっと念入りに目元をマッサージしながら、日焼け止めを塗る。鏡の中、自分を見つめながら髪を梳かす。他に気になることはないか、確かめながら髪を梳かす。ここを離れたら、多分一日鏡を見る暇はない。
窓を開けながら、娘を起こす。ほら、起きて、ほら。起きない。いっこうに起きない。仕方なく私はミルクに登場していただくことにする。ミルクをそっと娘の顔の上に運ぶ。昨日娘が言っていたのだ。もし起きなかったらミルクで起こして。さて、どうなることやら。顔に乗せる、娘がぎょっとして起きる。ミルクはわけもわからずちまちまと動いている。ほら、じじばばの家に行かなくちゃ。支度して。ねぇママ、昨日地震あったよ。え? 夜中に地震あった。ほんと? ママ、気がつかなかったよ。えー、結構大きかったよ。夢じゃなくって? 夢じゃない、ニュースでやってない? やってないけど。おかしいなぁ、結構揺れたんだよ、私起きちゃったんだもん。あらまぁ。果たして地震は現実に起きたんだろうか? それとも彼女の夢の中で起きたんだろうか? どちらだろう?

人の話に耳を傾けることの大切さ。積極的な聴き方。同時に相手の話を阻む12の障害。講師が一生懸命説明してくれる。みな、懸命にノートを取っている。私もそれについていこうとするのだが、どうも波に乗れない。気づくとうとうとしてしまう。はっと気づいて、シャーペンの先で指の付け根を突付いてみる。隣の人のノートがちらりと見える。どう見ても、私が記している内容とそれとは違っていて。私、一体何やってるんだろうと、正直焦る。
集中力が続かないのだ。没頭できない。人に囲まれている、大勢の人に囲まれているというだけで、過度な緊張が圧し掛かってくる。椅子に座っているのに眩暈を起こす。指先が痺れてきて、果ては頭痛も始まる。
勉強を始めるのは早かったんだろうか。まだ時期尚早だったのだろうか。私はそこまで回復していないんだろうか。でも。
今をなくして一体いつ勉強するというんだろう。チャンスは今しかないと、そう思ったから今回始めたのに。私はついていききれていない。完全に呑まれている。
グループディスカッションでも、何を言ったらいいのか分からない。次々誰かが何かしらを発言してゆくなかで、私はただにこにこ笑っているのが精一杯だったりする。ようやく授業が終わると、私はもうくたくただ。たった二時間、それだけの時間なのに、私にはその倍以上の時間に思える。歩きながら、気づく、爪先まで痺れていたことに。何故こんなにも身体に症状が現われてしまうんだろう。つくづく情けない。

辿り着いた家で、私はただぼおっとする。そうしているうちに娘が帰ってくる。あぁそうだ、今日は塾の日だ、しかもテストの日だ。大慌てでおにぎりを用意し、娘に渡す。ママ、あとでメールするから、ちゃんと返事ちょうだいよ! それだけ言って玄関を飛び出してゆく。
しばらくして届いたメールは。ミルクの写真を送ってください、だった。今寝てるよ、と返事をする。すると、起こしていいから、早く写真送って!テストのお守りにするんだから!と。
私はごめんねごめんねと言いながらミルクを起こす。そして、何とか携帯のカメラで二枚、写真を撮る。これでいい?という言葉を添えて、急いでとにかくメールを送る。しばらくして、ありがとう、届いた、との返事。突然何故ミルクをお守りになどと彼女は言い出したのだろう。何を思いついたんだろう。私には分からない。分からないが、とても大事なことだったらしい。私はようやく一息つく。

何かあると声が出なくなる、そういう症状を持つ友人と連絡が取れる。しかし今も再び彼女は声が出ないのだという。文字でのやりとりがゆっくりと続く。途中何度か、間が空く。しばらく待って、私は、大丈夫?と文字を打つ。するとそこに、うん、と返事が返ってくる。だから私は再び待つ。彼女が話したくなるまで。

父に電話をすると、いきなり怒鳴られる。私は一体何が起きたんだか分からず、面食らう。でも私が何かを言う前に、父は言うだけのことを言って電話を切ってしまった。私は呆然と、切れた電話を見つめる。
時々、こういうことが、ある。
私の何が悪かったんだろう。私の何がいけなかったんだろう。考えても考えても思いつかない。結局私は諦めた。考えても、何にもならない。それならもう、この気持ちを切り替えて、心を切り替えて、次に進むしかない。
それでも。
思わず涙が零れた。

ねぇさんは大丈夫だよ、強いから。ねぇさんなら大丈夫だよ、強いから。
強いって何だ? 弱いって何だ? 強そうに見えるのと、強いこととは違うよ。

だめだな、こういうときは。つい下を向いてしまう。いじけてしまう。どんよりと心が澱んでしまう。
そこで、風呂場の掃除をしてみることにした。雨なのにお構いなしに洗濯機を回しながら、タイルの目地をたわしで擦る。浴槽をスポンジで磨く。娘のおもちゃで、いらなくなっただろうものをこっそり棄てて整理していく。ごしごしごし、きゅっきゅっきゅ。ただそういった音だけが部屋に響いている。ごしごし、きゅっきゅ。ただ、それだけ。
こういう時は、単純作業がとてもよく似合う。洗濯物を干し、風呂場も洗い終えた頃には、少し、心が軽くなっていた。寝逃げするとかできない私には、こういう作業がちょうどいい。よし、これで今度の休みには娘と二人できれいなお風呂に入れるというもの。といっても、もう彼女はあまり、私と一緒に入ってはくれなくなっているのだが。

そうか、私は少し、疲れているのかもしれない。だから何をしても、俯いたり涙こぼしそうになったりするのかもしれない。疲れているということをまず、受け容れてやろう。その上で、まだ頑張れるかどうか、自分に相談してみよう。多分ここのところ、自分さえもおざなりになっていたような気がする。
いろいろなことが気に懸かっていた。心煩わせていた。でも、疲れてる今はとりあえずそれらは保留棚にぽい。自分を少しでも軽くしてやろう。今日私ができたこと、とりあえず学校に行けたこと、なんとか授業を受けきれたこと、娘にミルクの写真を送ってやれたこと、風呂掃除をしたこと。とりあえず数えただけでも、幾つかあるじゃないか。もうそれで十分だ。
そこに電話が鳴る。ママ、あと少しでY駅に着くからね。迎えに着てね。うんうん。あのさ、写真ありがとう、効果あったよ。でもさぁ。何? 一枚目の写真、ぶれてたよ。へ? ははははは。ごめーん。いいよいいよ、効果あったから! 結果は後で言うね! うんうん、分かった。それじゃ、また後でね。
うまくいかないことは、よくあること。思うようにいかないこともよくあること。何も特別なことじゃない。そういう日もある、ってだけだ。
ママ! 娘が私を見つけて駆けてくる。しっかり抱きとめてやろう。まだ娘を抱きとめるくらいの余力は、ちゃんと残ってる。


遠藤みちる HOMEMAIL

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