見つめる日々

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2009年11月13日(金) 
気配に驚いて目を開けると、娘が立っている。どうしたの? なんかトイレ行きたくなった。珍しいこともあるものだ。一度寝たら起きたことのない娘なのに。ミルクとココアがまた回し車回してるね。うん、夜じゅう回してたよ。今見たら、ミルク、すごい勢いで回ってた。あれでおなかの肉も少し減るかなぁ。だといいねぇ。そこまで話している間に娘は再び寝付く。そして代わりに私が起き出す。午前四時半。まぁいい頃合だ。
まだ明けない空。それでも分かる。厚い雲が空全体を覆っていることが。私は丹念に顔を洗う。ベランダに出て髪を梳きながら、もう一度空を見やる。雨は降らないまでも、今日は一日曇りなのだろう。きっと。雲が動く気配が何処にもない。その間に指が勝手に動いていた。三つ編み。久しくしてなかった。学生の頃はよく三つ編みをしていた。長い髪をまとめようと思ったら、三つ編みが一番簡単だった。髪の毛の量が多い私は、一本で三つ編みを編むと太く太くなってしまうから、いつも二つに分けて結った。斜めに一本、三つ編みをしている人を見かけると、だからちょっと羨ましかった。懐かしい。
お湯を沸かしながら器を選ぶ。何となく青い器に手が伸びる。松島で手に入れたものだ。両手で包むとちょうどいい大きさ。寒い日にはとてもお似合いかもしれない。

ママ、おにぎりが足りなかったよ。帰宅して一番に娘が言った。大き目のおにぎりを一つ、中にたらこを入れて作ったのだが。おなかすいちゃった。おにぎり食べようかな。娘は冷凍庫から作り置きのおにぎりを出してきて電子レンジであたため始める。そんなにおなかすいたの? うん。いっぱい歩いた! ランドマークにも上った! それだけ話すと、彼女はもくもくとおにぎりに齧りつく。
ねぇママ、今日、ムロはなんて言ってた? ん、新しいクラスでも頑張れって言ってたよ。あと、字をきれいに書いてねって言ってた。ふーん。もぐもぐと噛みながら彼女は横を向く。

娘の塾の、面談があった。私は朝から何となく落ち着かなくて、早めに出掛けることにする。慣れない人に会うのは、いつでもやっぱり緊張する。喫茶店で頼んだカフェオレも、味がよく分からないまま飲んだ。
娘さんはいつでも元気はつらつでおおらかですね。開口一番、先生がそう言う。今回テストの結果が悪く、下のクラスに落ちることはもう明らかだった。そのことを最初に言われるかと思ったら。私はちょっと面食らった。そして夏期講習の時の話になった。夏期講習はそれまでの復習だったこともあってか、彼女はとてもいきいきとしていたんですよ。いつでも活発に授業に参加していた。でも、クラスが上がったら、そのクラスの雰囲気に完全に呑まれてしまったようで。萎縮してしまいました。授業で分からないことがあっても、家に帰ってからやればいいや、というような雰囲気が出てきてしまって。授業でちゃんと学ぶという勢いがなくなってしまったんですよね。手を上げることも殆どなくなってしまった。そうなんですか。授業外のところでは変わらず元気いっぱいなんですが、授業になると小さくなってる、そんな感じでした。
娘さんは男子とも堂々と渡り合う勢いがある。負けん気もかなり強い。それが、クラスが上がったことによってそうしたいいところが全部消えてしまった。もしかしたら、下のクラスの雰囲気の方が彼女に合っていたのかもしれない。はぁ、でも娘は、かなり焦っていたんです。上のクラスと下のクラスとではやることが全然違う、テストの内容も違う、だから下のクラスにいたら落ち零れになる、と。ははぁ、やっぱりそうでしたか、そんなことはないんですよ、本当は上のクラスの成績レベルの子なのに、自分には下のクラスの雰囲気の方が合うからと敢えて下のクラスにいる、という子供が何人か実際にいたりするんです。そうなんですか? はい。もしかしたら娘さんも、そのタイプなんじゃないかと思いました。はぁ。今回たくさんの子が上のクラスから下のクラスに移動になります。それに合わせて下のクラスのレベルも上げていかなければならないと思っています。そうやっていきますから、安心して授業を受けてみてください。はぁ。彼女の負けん気が、ここで再び発揮されてくれば、いいと思ってるんです、僕は。
お嬢さんは、塾で、お母さんやおじいさまに勉強を見てもらっていることについて、不平不満を言ったことが一度もありません。そうなんですか? ええ、普通なら、これだけみっちりやられたら、一度くらい、もうやだなぁくらい言うものです。でも彼女は言ったことがないんですね。はぁ。多分彼女は、勉強の時間に満足してるんだと思います。自分のことだけ見ていてくれる時間、というか。はぁ。私事になりますが、僕は父の顔を知りません。母は私が幼い頃に父と別れたそうで、気づいたら祖父母と母とが一つ屋根の下暮していて、僕は祖父のことを父だと思い込んで育ったんです。そうだったんですか。小学校四年の時でしたね、今でも覚えています、母に突然訊いたことがあったんです。ねぇうちってちょっと変じゃない?と。そこで初めて、母が父と別れたことを知ったんです。そうなんですか。お嬢さんとある意味、全く同じなんです。はい。だからといったら何ですが、僕は彼女に、頑張って欲しいと思ってるんです。あんなにおおらかで明るい子はいまどきなかなかいない。いい子に育ってますよ、お母さん。…。

娘の勉強を見ながら、私は敢えて、自分の勉強を始めた。ママ、何してるの? ん? ママの勉強。何それ。心理学の勉強だよ。あなたも大学生くらいになったら多分授業でやると思うよ。へぇぇ。ママも勉強するから、あなたも勉強頑張って。ふぅーん。
私は時折彼女の背中を見つめながら、ノートの整理を続ける。それが終わると、夕飯の用意をしながら、彼女の様子を見つめている。
理科はちょうど星座に入った。彼女の解答を採点しながら、こんなの私は全然覚えてなかったなぁと改めて思う。中学受験を私もしたが、果たして、こんなに勉強しただろうか。したなかったと思う。私は、自分で言うのは嫌だが、何でもたいてい器用にこなす子供だった。だから勉強で苦労したという記憶があまりない。算数くらいだ、算数の、流水算やらつるかめ算やら、そういった類だ、苦手だったのは。他はたいてい難なくこなした。そのせいか、受験が終われば受験のために勉強したことなどすっかり忘れた。今覚えていることなど全くもって残っていない。娘はどうなんだろう。娘は私と違って不器用だ。あっちこっちで躓く。躓いて、私に怒られたりじじに怒られたり。散々だ。それでも彼女が勉強を止めたいと言わない、その理由を、私はあまり考えたことがなかった。「学校の勉強は面白くない、塾の授業が楽しい」という彼女の言葉を額面どおり受け取るばかりだった。でも。塾の先生に言われた言葉を思い出す。お嬢さんはお母さんやおじいさんとの勉強の時間に満足しているんだと思いますよ、その時間だけは間違いなくお母さんやおじいさんが自分だけを見ていてくれる、という、そのことに、嬉しさを感じているんだと思いますよ。寂しいんですよ、本当は。
胸が痛む。娘にそんな思いをさせていることに、気づけなかったとは。私は台所で唇を噛む。

ママ、もう出掛ける時間じゃないの? 今日学校なんでしょ? あぁ、そうだ、うん、そろそろ出掛ける、ほら、布団畳んで。そこちゃんと整理しといてよ。わかったわかった。いってらっしゃい。いってきます、それじゃぁね。
玄関を開けると寒風がどっと私を包み込む。立て続けに三つくしゃみをする。私は襟を立てて、階段を降り始める。
バス停から空を見上げる。やはり雲が動く気配はない。このまま居座り、きっといずれ雨を降らすのだろう。
バスに揺られながら、やはり、昨日の塾の先生の言葉のあれこれが思い出される。あんなにも細かく娘を見ていてくれたのかという驚きと、自分が気づかなかった情けなさと。ふと思う。私は娘の長所をどれだけ挙げられるんだろう。
Y駅東口です。バスの中アナウンスが流れる。私は降り口に立ち、ドアが開くのを待つ。やはり今日は風が強い。バスの扉が開いた途端吹き込む寒風。娘は半袖で大丈夫なんだろうか。
川を渡り始める。中ほどで足を止め、流れ往く水面を見やる。見やりながら思う。あぁ、もう少し、もう少し娘を思いやることができたら。今改めて、そう思う。


遠藤みちる HOMEMAIL

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