2009年12月06日(日) |
部屋の中に赤の他人が入り込んでいる。そんな気配の夢を見る。それはひどく不快な感覚で、私を脅かす。夢の中で叫んだのを覚えている。そうして結局二時間で、私の睡眠は終わる。その後全く眠れず。結局、私は起き上がり、娘が留守なのをいいことに写真を焼き始める。前回焼いたものの中から何点か選び出し、焼き込む。外は雨がまだ降り続いている。 気づいた時には四時半を回っており。窓に近づいてみれば、いつの間にか雨が止んでいる。私は早速、結わいた髪を解き、梳き始める。酢酸の匂いが何となく纏わりついている髪をばさばさと煽り、少しでも風が通るように。少しでもその匂いが消えるように。それと共に、あの夢の気配も一緒に消えてなくなるように。 朝の仕事をしていると、突然コンピューターがシャットダウンしてしまう。あまりの唐突な出来事に呆気に取られる。あり得ることだとは知りつつも、こうも見事に突然やってくると、信じられない思いがする。さっきまで書いていた原稿は何処へいったのか。もちろんそんなもの消えてなくなっているわけなのだけれども。もう一度同じものを書く気は到底起こらない。私は諦めて、別の題材に取り組むことにする。さっきのものはもはや後回し。 気分転換に煙草を吸いながら再びベランダへ。ぬるんできた空にぽっかり白く薄い月の影が浮かんでいる。西に傾き始めたその姿は、指で触れたらぱりんと割れてしまいそうなほどに薄く。私はしばしそれを見つめる。そうして振り返れば薔薇たち。私はまずミミエデンに病葉は見られないことを確かめる。大丈夫、今日もない。ほっとしながら土の状態を見、軽く水を遣ることにする。一つのプランターに如雨露半分の水を。ホワイトクリスマスの蕾はもうずいぶん太ってきた。これは天気によってはクリスマス前に咲いてしまうかもしれない。そう思いながら隣のベビーロマンティカを見やれば、二つ、三つの蕾。こちらはまだ小さめ。育て始めてすぐ虫がついた。三匹もの青虫が葉を食べていたっけ。虫に食われた葉はまだそのまま残っている。虫の姿はもちろんもうないけれど。 パスカリからも新芽が次々出始めている。この冬蕾がつくことはないだろうけれども、それでも赤い新芽を見ることができることはとても嬉しい。一方、赤紫色の薔薇が咲く樹の芽がちょっとあやしい。よくよく見れば病葉が。私は急いで摘んでやる。他はまぁだいたい大丈夫だろう。 玄関に回り、アメリカン・ブルーとラヴェンダーの鉢にも水を。こちらは病気にはなる気配が無い。やはりそれだけ強いんだろう。枝の先を指でぎゅっと挟み、揺らしてみる。根は大丈夫か。ぐっとした強い反動が私の指に返ってくる。これなら大丈夫。あの時全部、虫の幼虫は排除できたらしい。私は安堵する。そして挿し木したラヴェンダーの根元から、小さな新芽が出ている。かわいい新芽。まるで赤子がぱっと手を開いた時のような。そんな様。 そして今、日がぱっくりと昇り始める。東の空から一筋伸びてくる陽光。私の足元を照らしている。
娘を送り出してから一つ用事を済ませた後、街へ出る。私は正直、その街はできるだけ避けていたい。かつての知り合いが多くいるからだ。まだ会いたくない。私の中ではそう思っている。懐かしいとは、まだ言えない。 人目の少ない、地下の席がある店で人を待つ。土曜日ということもあるんだろうか、前回来たときより格段に人が少ない。私はほっとする。私は、買ってきた小さな花篭をもう一度眺める。気に入ってもらえるだろうか。その友人に赤子が生まれたのはもうだいぶ前。でも直接お祝いがその時できなかった。だから今日改めて、花篭を持ってきてみた。どうだろう。受け取ってくれるだろうか。 そうこうしているうちに友人がやって来る。仕事の合間ということもあり、スーツ姿で。話が私の以前居たHという編集部に及ぶ。どうして辞めたの。改めてそう聞かれ、私は咄嗟にごまかしていた。でも。 その編集部の上司に強姦されたんです。それが元でPTSDになりました、それで編集部を辞めざるをえなくなりました、とは、さすがに言えなかった。私は笑いながら、別のことを喋っていた。 確かにそういう気持ちは気持ちで、在った。全くなかったわけじゃない。でも。 もし私が事件にも遭わず、元気でいたなら、もっと編集部にいたかった。それが、私の本当の、正直な気持ちだった。 思い出すととりとめもなくなる。だからできるだけ人と会っている最中は思い出さないようにしている。が、私の脳裏では、あの時の映像がからからと回り続けていた。 友人は明るく、いろいろな話をしてくれる。私はそれに耳を傾ける。先日わざわざ仕事の合間を縫って国立まで足を運んでくれた友人。もうそれだけでありがたい。しかも書簡集を素敵な空間と気に入ってくれたことが、これまた嬉しい。あの場所はまるで隠れ家のようで。秘密の小部屋のようで。遠い場所だけれども、行けば、長い時間を過ごしたくなる、そういう場所だから。 私が手元に持っていた本の著者を、友人もこれまでにさんざん読み込んでおり。最後その話になる。友人の言葉をひとつひとつ追いながら、私は、私は気づけるんだろうか、とそのことを思う。自分自身を理解することが、受け容れることがまずできるんだろうか、と。自己一致。そのことが、頭にずっとひっかかっている。 友人と別れ、できるだけ足早にその街を離れる。やはり緊張していたんだろう。冷たい手なのに汗をかいている。その手を握り締めながら私は振り返る。いつかまた、ここを笑って歩くことができるんだろうか。そういう日ができるなら、早く来て欲しい。そう、祈る。
自分の街に戻り、娘に頼まれた買い物をしながら歩く。だんだんと暗く重く、こちらに迫ってくるように集まってくる雲。雨、降り出すな、と覚悟する。傘はもちろん持ってなんかいない。でもまぁ、それもいい。 娘が私に手渡したメモを握りながら、売り場を回る。途中、紙を買って帰りたい衝動に駆られるが、雨が降り出したらとんでもないことになると諦める。近いうちに買いに来なければ。ものはついでと、薔薇の肥料も買い込む。 店を出た途端、ぽつり、と来た。私は空を見上げる。頬にまたぽつり。あぁ降り出した。雲はもう、すぐこちらまで迫る形相。私はその下を歩き出す。自転車ならたった五分、十分の距離だけれども、歩けば二十分ほどはかかる。高架下をくぐり、横断歩道を何度か渡り。銭湯の裏道を選んで歩く。その頃にはもう、ぽつぽつぽつと雨は降っている。私のコートを雨粒が濡らしてゆく。 誰ともすれ違うことなく。私は裏道を抜け。最後の坂道をのぼる。これをのぼればもう家はすぐ目の前だ。プロテスタント教会の脇を抜け、もう閉店した鰹節店のところで曲がり。学校の校庭では、まだ野球チームが練習を続けている。それを何となく見やりながら、私は家に辿り着く。
いつものようにハーブティを入れようとして、止める。温かくて甘いミルクティが飲みたい。そんな気分だ。私はお湯を沸かし、用意する。適当な砂糖がないから、粉砂糖を一匙入れる。濃い目に入れたミルクティ。なんだかほっとする。私がお酒が好きならここで、砂糖やミルクではなくブランデーなど垂らしてみるのもいいんだろうけれども。 娘がいないせいか、食べる気がしない。そして、さっき買い物をしてきた袋を改めて覗いて愕然とする。間違えた。明太子を買ってくるつもりが、生たらこを買って来てしまった。なんというどじさ。私は舌打ちし、腕を組む。さて、この生たらこ、どうしよう。冷凍おにぎり用のご飯を炊きながら、私はなおも考える。考えて、塩漬けにしてしまうことにする。うまくいくか知らない。やったことなんかない。ないけど、それしか術はないだろう。とにかくやるだけやってみる。娘よ、ごめん。おまえの好きな明太子、またしばらく買ってくるには時間がかかりそうだ。赦せよ、娘。
夜、娘に電話をかけると、フィギュアスケートを見ている最中だという。私も早速テレビをつける。日本人選手が、ちょうどジャンプで手をついてしまった。あー!と私が叫べば、娘もあーーっ!と叫ぶ。娘がいけいけー!と言えば私もそうだ、いけーーー!と叫ぶ。結局、テレビが終わるまで娘との電話は繋がっている。 ねぇ明日何時頃迎えに来る? 早めに行けるけどそっちの予定は? うーん。じいじ次第。ははは。じゃぁまた連絡するよ。分かった、じゃぁまたね! はい、またね!
いつの間にか東の空は青空になり。西を振り向けばまだ、触れたら割れてしまいそうな薄い月がぽっかり浮かんでいる。私はそんな月が結構好きだ。もちろん夜煌々と輝く月も好きだけれど、何だろう、月に対して私が抱くイメージは、この、朝の薄い月により近い。自転車で走り出しながら、だから私は何度も後ろを振り返る。白ささえもが青空に溶けてしまいそうに脆く。でも、間違いなく月はあそこに在り。 雨に濡れた、散り落ちた銀杏はくたっとアスファルトに張りついている。もう樹に葉は殆ど残っていない。銀杏の季節もそう、もう終わりなんだ。次はモミジフウ。私にとっては、モミジフウの季節。あの黒褐色の、形が変わることはないあの実に出会える季節。 さぁ、今日はいい晴れ間だ。何処まで走ろう。まずは港まで。それから先は。またその時に考えれば、いい。 耳元ではジョシュ・グローバンの、To where you areが流れ始める。海風が私の、結わいた髪をくわんと揺らす。私は再び走り出す。きっとあの向こうには今、濃紺の海が、待っているはず。そう信じて。 |
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