2009年12月07日(月) |
目を覚ます午前三時。妙にぱっちりと目が覚める。布団の中で寝返りを打てば娘の頭が目の前に。そして動いた私の気配を察したのか、娘の腕がどしんと私の頭に。無防備だった私の頭にそれはあまりに強い衝撃で。私は一瞬目を回す。このままじゃ眠れそうにない。私は枕元、ペンライトをつけ本を広げる。クリシュナムルティの「あなたは世界だ」。線を引きながら、ゆっくり読む。 「私たちはいつも、他の人の灯で自分のランプをともしてもらいたがっているのです。私たちが自分自身の灯であることはけっしてありません。自分自身の灯であるためには、私たち自身の精神で見、観察し、学ぶことができるよう、あらゆる伝統、話してのそれをも含めたあらゆる権威から自由でなければならないのです」「重要なのはあなた自身について学ぶということなのです」「ご自身を実際に観察することによって学ぶということです。そうするなかであなたは、自分が世界なのだということを見いだされるでしょう」「クリアに見るということは、なんのイメージももたず、どんなシンボルやことばもなしに見るということです」「けっして他の人に追随しないことです。どのようにふるまい、どのように生きるかを、けっして他の人から見いだそうとしないこと。他の人があなたに言うことは、あなたの生ではないのですから」「なんの判断もせずに自分自身を見る」「私たちの関係というのはイメージ間のものなのです」「私は嫉妬が自分とは別のものであることを認めず、「私は嫉妬している」と言います。それは事実です。私はそれを避けません。そこから逃げだしませんし、それを抑圧しようとはしません。私のすることはなんであれ依然として嫉妬の一形態なのです。その結果、なにが起こるでしょう? 無活動が全活動です。観察されるものとしての観察者という立場からの、嫉妬に関する無活動、それが嫉妬の停止なのです」「重要なのはあなた自身について学ぶということなのです」「ご自身を実際に観察することによって学ぶということです。そうするなかであなたは、自分が世界なのだということを見いだされるでしょう」「私たちが暮す社会は、私たちの心の状態の結果です。社会は私たち自身です。世界は私たち自身なのです。世界というのは、私たちと別個にあるものではありません。私たちそのものが世界をつくっているのです」「私たちの責任というのは、まず最初に自分自身を理解することである、と私は思います。なぜなら私たちこそが世界だからです」。 以前読んだ際引いたのだろう線が、そういった箇所に引かれている。私はそれに惑わされぬよう、あらためて全体を読んでゆく。 気づけば午前五時。もう起き出す時間だ。私は顔を洗い化粧水をはたく。鏡を眺めながら、おはよう、と自分に言ってみる。少し浮腫んだ瞼。丹念に指でなぞる。窓を開けベランダへ。いつものように櫛で髪を梳かす。いつか透かし模様の櫛が欲しいと思いながらもう十数年。まだそんな櫛を作っている職人さんはいるのだろうか。いつかいつか、きっといつか。まだ私はそう思っている。
朝実家に電話をすると父が。今ばばと娘は朝の散歩に出掛けているという。そこできっとまた栗鼠や狸に出会っていることだろう。あの裏山はまだ健在だ。人に削られても削られても、それでもまだ。それが私は嬉しい。父に今日の予定を確かめる。今日はケーキパーティをやるのだとか。午前中は国語、午後早くに理科と社会を終えたら、三時にケーキパーティ。その後での帰宅になるという。電話を切ってから想像する。三人はそれぞれどんなケーキを食べるのだろう。娘はやっぱり苺のケーキだろうか。それともチョコレートケーキだろうか。母は多分モンブランだろう。父はさてさて。
久しぶりの、休日らしい休日。しかも天気は晴れ。私は溜まった洗濯物を片付けることにする。一回、二回、結局三回も洗濯機を回す。一回目は娘の洋服が殆ど。二回目は下着や靴下。三回目はタオル。あっという間にベランダは干された洗濯物でいっぱいになる。 一通り洗濯物が終わると、私は新しく買ってきた小さなプランターに土を用意する。そこに、これまであちこちに挿してきた挿し木を全部まとめることにする。そおっとそおっと、枝の根元を傷つけないよう掘り返す。まだ根など出ていない薔薇の枝たち。枝の根元にはじゃぁ何があるかといえば、白いぼこぼこ。無事に育てばここから根が出てくる。もうそれがどの薔薇の枝だったか私は覚えていない。途中枯れたものが何本もあった。今生き残っているのは八本。これが無事に冬を越えてくれるかどうか。 正直言うと、もう正式名称を忘れてしまった薔薇もある。大きなぼんぼりのような、薄い橙色の花を咲かせる樹、それから小さな桃色の、これもまたぼんぼりのような形の花をたくさんつける樹、それから最初は濃橙色の花だったのにいつのまにか接木した木の色が勝ってきて赤紫色の花を咲かせるようになってしまった薔薇の樹。これらの薔薇の名前は、これから先もずっと分からないままかもしれない。あえて人に訊ねようとも調べようとも思っていない自分だ。それでもかわいい樹たちに違いはない。
もう一体何年前になるんだろう。私の病気がまだまだ重たい頃だったと思う。その頃出会い共に音を奏でたことのある友人が、偶然にも書簡集の前を通り、そこにあった展覧会の看板を見たのだという。まさかそれで連絡をしてくれるとは思ってもみなかった。今も変わらずその友人は音を奏で続けているという。かつて私が聴いたことのある彼の音は、まるで空中を浮遊するきらきらとした光の粒のような、そんな音だった。今は一体どんな音を奏でているのだろう。どきどきしながら彼から届いた短い手紙を繰り返し読む。そして、当時のことがぶわっと私の中蘇ってくる。 一体どれほどの人を傷つけてきただろう。自分の波乱に他人をどれほど巻き込んできただろう。それを思うと、穴があったら入りたい気持ちになる。もう今更、だから私はもう、そうであったと認め受け止めるしか術はないのだが。嵐の中大波に揺られる小さな小舟のようだった。その揺れを、そばにいる人にまで及ぼさせた。私はそうやって、幾つもの関係を壊してきた。そう思う。今だから、そう思う。 今の私にできることは、何だろう。そのことを改めて、思う。
ねぇママ、私ね、ミルクの言葉がだいぶ分かるようになったよ。へぇ、どういう言葉持ってるの、ミルクは? あのね、籠の右の方を齧ってるときっていうのは、出して遊んでって言ってる時なんだよね、で、左の方を齧ってる時って、つまんないなぁって言ってるの。真ん中らへんの時は、おなかすいたよーって言ってるの。へぇ、そんな違いがあるんだ。ママ、全然知らなかった。へへーん、そりゃ、私がご飯あげてるからねぇ、ママにはわかんないこともあるんだよー。そりゃそうだ。ははは。それに、ミルクは噛むけど、もうそれにも慣れてきたよ。ええっ、噛まれても平気なの? うん! ママは全然平気じゃない。そりゃ、ママに噛むときと私に噛むときとじゃ、調子が違うからね! そうなんだ、ママにはじゃぁ強く噛んでるんだ。きっとそうだよ。うん。へぇ、違うんだねぇ。 そうして娘は、ミルクの、余分な背中の肉をつまんでひっぱって、ほら、モモンガだよーと笑っている。それはちょっと、どうかと思うんだけどと母は心の中思う。ミルクは、へんてこりんな顔をして、娘の笑い声を聞いている。
今日は病院の日。診察の日だ。私は早めに家を出る。娘がミルクを掌に乗せて見送ってくれる。じゃぁね、またあとでね、うん、いってらっしゃい。 バスに揺られ、電車に揺られ、私は本を読み続けている。ちょっと気持ちが揺れると途端にするすると逃げてゆく言葉たち。だから私はゆっくりと、噛み締めるようにして読み続ける。 ふと見上げれば、美しいうろこ雲が空に広がっている。おのずと生まれるその模様に、私はしばし魅せられる。最寄の駅で降りれば、そこには銀杏並木が真っ直ぐ続いている。私は立ち止まって見つめる。ここの銀杏ももう終わりだ。足元に絨毯のように積もった落ち葉。陽光を受け黄金色に輝くその落ち葉。樹は黙ってそれを見守っている。まるでそっと両腕を広げて抱いているかのような。そんな気配が伝わってくる。 さぁ、今日も一日が始まる。私は銀杏並木に背中を向けて、歩き出す。多くの人が行き来する駅前広場。かつかつ、こつこつという靴の音が響き合う。私はその音の中に紛れる自分の靴の音に耳を澄ましながら、歩いてゆく。 |
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