見つめる日々

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2009年12月12日(土) 
本を広げたまま寝入ってしまったらしい。手にはペンを握ったまま。私は今更ながら本を閉じ、鞄に仕舞い込む。おはようと声をかける間もなく、ミルクがこちらを見、がっしと籠に齧りついている。おはようミルク、おはようココア。
カーテンを開ければ、雨は何とか止んだらしい。アスファルトや街路樹はまだまだ濡れ坊主だけれども、雨の音はしない。いつ止んだのだろう。私は窓を開け、ベランダに出る。色濃く残っている雨の気配を、私は深く吸い込む。
闇色の中、私は手探りでお湯を沸かす。今朝はレモングラスとペパーミントにしようと昨日から決めていた。私は友人が去年プレゼントしてくれたカップを用意し、ハーブティを入れる。一口啜る。途端に口の中に広がるのは、さっぱりとした、実に爽やかな香りと味。
私は再びベランダに出、薔薇の葉をじっと見つめる。病葉はいないか。どこかにかくれていないか。そうして今朝もまた見つける。白く粉を噴いた病葉を。だから私は指先でぷつっと摘む。本当にぷつっという音がしたかどうか、知らない。でも私には、そう見える、そう聴こえる。生きた葉が最期上げる悲鳴のような。そんな小さな儚い音。
でも。雨上がりの薔薇の緑は実に美しい。日々葉に積もる塵芥がすっかり流れ落ち、ふっくらとつやつやした葉に蘇る。雨はそんなに好きではないが、雨上がりの世界を見つめるのは好きだ。街路樹の幹も枝々もまだ濡れており、街燈の仄明かりを受けて輝いている。世界の何処かしこもが、洗いたての洗濯物のようにつややかだ。
私は水槽をこんこんと叩き、金魚の様子を見る。水草はもう新しいものを用意してやらないといけない時期かもしれない。近いうちに買いに行こう。金魚たちはこちらに近づいて、口をぱくぱくさせている。餌をやるのは娘だから、娘が起きるまでもうしばらく待っていてね、と私は話しかける。それにしてもまた、だいぶ大きくなってきたものだ。尾鰭がふわりゆらりと、水の中漂っている様は、なんという美しさなんだろう。

実践授業の日。今日もまた二組に分かれてそれぞれ役割分担をし、ミニカウンセリングを始める。今日はまた先週と違う講師で、その講師のミニカウンセリングはこれまた先週のものと全く異なり。少しずつ私の中で、形が広がってゆく。広がって、そうして見えてくる。それまで雲を掴むような感覚だったものが、少しずつ少しずつ近づいてくる。
耳を傾けること、自分をまっさらにして耳を傾けることの難しさを、つくづく思う。それでも、その作業は私に生気を与えてくれる。何故こんなに心がとくとくと鳴るのだろう。生きている、そんな気がする。

様々なことがありすぎて、私は自分を木っ端微塵にしてきた。DVや強姦、幼少期の精神的虐待といったものから、PTSDは引き起こった。PTSDだと診断された時にはもう、すでに粉々だった。何をすることもできない、何をすることも叶わない、何もできない、全くの無力な自分がそこに在った。それはもう、吹けば飛ぶような、そんな代物だった。
「あんなに自信に満ちて生き生きしていた人がどうして」と、そんなことをよく言われた。言われ続けるしかできない時期があった。そんなもの、最初からなかったよ、いつだって怯えながら虚勢を張って何とかここまで生き延びてきたんだよ、と、その頃の私は心の中悲鳴を上げていた。声にならない声を上げていた。
そして気づけば、自ら自分を傷つける行為を、繰り返すしかできなくなっていた。いろいろなものを失った。匂いも、味も、分からなくなった。世界はいつも歪んで見えた。それどころか、色が失われ、私の視界はいつもモノクロームだった。赤い薔薇さえ、私にそれは赤ではなかった。赤なのだろう、と、想像するしか、記憶を辿るしか、術はなかった。黄色も茶色も、同じ色だった。同じ匂いだった。違うことさえ、認識できなくなっていった。
そんな自分が、再び何かをやろうと思うことができるなんて、そんなこと、夢のまた夢だった。何かをしようとすれば恐怖が襲ってくる、怒涛のように襲ってくる。それに打ち勝つには、私は弱りすぎていた。何をするにも自分を責めた。こんなことになったのは全て自分のせいなのだと、そうやって責めることでしか、私は生き延びてこれなかった。責めて責めて責め苛んで。そうすることでようやっと、私は生き延びてきた。
でもきっと、長い時間をかけて、私はそこから這い出してこようとしているのだろう。あぁなんという長い時間だっただろう。PTSDと診断されてからの時間だけを数えても、それは長すぎる。十年以上、もう二十年近くが過ぎる。それでも。
生き延びてきたことは、無駄じゃぁなかった。決して無駄なんかじゃなかった。今ならそう思う。
私はきっと、小さい頃から孔だらけだ。これでもかというほどの孔だらけだ。それを埋めるものはないかとずっと探してきた。でも。
埋めてくれるものなど、ないのだと分かった。埋められるのは誰かじゃない。何かじゃない。他の何かでも他の誰かでもない。私自身だったんだと。今なら、分かる。
それに、孔があれば、気づけることもある。孔があったおかげで、そこに風が吹けば音がした。雨が降ればそこはびしょ濡れになった。そして太陽が昇れば。
孔があったからこそ気づけたことが一体幾つあるだろう。孔だらけであることを恥じることしかできなかった。長いことずっと。でも、恥じる必要はないことを、今なら思う。それはそれなんだと、あるがままを受け容れればそれでよかったんだと、今なら分かる。
私は生き延びながら死んでいた。長いことずっと。でももう、私は生きていいのだと思う。生きたいと思う。生きていたいのだと。そう思う。

私の娘は、生の塊だ。何度も打たれ叩かれながらも、あの子はにっと笑って立ち上がる。そこにどんな思いが秘められているのか、私は知らない。想像も、できそうにない。恐ろしいほど奴は、生の塊で。私には眩しすぎて。
でも、その奴のおかげで、私は今ここに在る。そう言って過言ではない。だからいい加減、私は自分で生きたいと思う。奴のおかげでもなんでもなく、自ら生きたいとそう思う。

そろそろ出掛ける時間だ。私は娘の尻を叩き、ほら行くよと声を掛ける。娘はミルクとココアに挨拶の頬ずりをし、私はその間に靴を履く。
玄関を開ければ。ぐしょぬれの校庭。水溜りが幾つも、大きなもの小さなもの、幾つも幾つも。空はまだ使い古した雑巾のような色合い。傘、持たなくていいの? 雨降ったら濡れればいいんじゃないの? そうなんだぁ、じゃぁいっかぁ。娘が笑う。だから私も笑う。
バスに揺られながら駅へ。改札を抜ければ娘は右、私は左だ。手を振り合って別れる。じゃ、また日曜日ね、うん、日曜日にね。そう言い合って。

木っ端微塵になって、まだ今私はばらばらに広げられたジグソーパズルのようなものだ。でもそれを繋げるのは、他の誰でもない、私自身だ。そう思う。
でもだからこそ、そこから始められるものもあるんじゃないだろうか。

多分。きっと。


遠藤みちる HOMEMAIL

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