2009年12月14日(月) |
いつ寝入ったのだろう。何度か娘に、本を読むのか寝るのかどちらかにしたら、と言われたことを覚えている。疲れ果てていて、椅子に座っていることも辛く、横になったものの、もったいなくて本を広げた。広げたけれど。という具合だった覚えがある。そういう娘は一体いつ眠ったのだろう。私より遅かったに違いない。またやってしまったか。娘より先に寝入るのはやめようと思っていたはずなのに。そんなことを思いながら目を覚まし起き上がる朝。ミルクが早々に家から出てきて、籠に齧りついて待っている。 私はいつものようにハーブティを入れる。あたたかくなったカップを両手で抱きながら、ベランダに出る。いつ雨が降ったのだろう、覚えていない。でもアスファルトも街路樹もしっとりと濡れている。私はハーブティを啜りながら、冷気を吸い込む。 ちょっと目を離した隙に、ベビーロマンティカの蕾もホワイトクリスマスの蕾も共にまた膨らんできている。一層丸々と太り、さぁこれからだと言わんばかりの表情。そう、君たちはこれから。私は空を見上げる。雨雲がまだ残っているけれど、今日は晴れるのだろう。雲はゆっくりと地平線あたりに溜まってゆく。じきにそれも散り散りになるだろう。病葉はいないか、私はじっと新芽のあたりを見つめる。そこで幾つか見い出される病葉。私は一枚一枚爪の先で摘んでゆく。病葉と私の追いかけっこは、そうして何処までも続いていく。
娘がサンタクロースに手紙を書いたという。ママ、出しておいてね、と言うので受け取った。それを今こっそり開く。NEWスーパーマリオブラザーズというのは一体何のことだろう。後で調べなければ分からない。実に短い、簡潔な手紙だ。それが欲しい、ということが淡々と書かれている。そして最後に、風邪をひかないでください、と添えられている。そういえば今年のサンタクロースは、新型インフルエンザへの対策を会議で相談したそうだ。サンタクロースがマスクをするわけにもいかないだろうし、どんな対策が練られたのだろう。少し気になる。 できるだけ娘の願いに沿うよう、毎年こうして娘のサンタクロースへの手紙をこっそり覗くわけだが、やっぱりちょっと後ろめたさがある。私はこの手紙を何処宛に出せばいいんだろう、そう思いながら、こっそり覗く。中学生にでもなれば、もうクリスマスプレゼントなんて誰から受け取るか、決まりきったことになってしまう。それまでのほんの短い間、彼女がまだサンタクロースを信じている間は、できるだけできるだけ、彼女の願いを叶えてやりたい。そう思いながらも、私の頭の中は今、?マークが小躍りしている。世の中のそういったモノをあまり知らない親を持つと、子は苦労するな、と、ひとり、心の中苦笑する。
彼の仕事を見ていると、私は母の仕事を思い出す。母もよく、模写していた。エジプトの遺跡の模様などがよく母の画帖に描かれていたことが思い出される。母が描く花の画は実に細かく、実に正確で、私はそれを見るたび舌を巻いた。母の横で絵を描くと、だから私は緊張したものだった。いつ母の一喝が飛んでくるかと、母の指摘がなされるかと、ひやひやしながらいつも描いていた。母の指摘はいつでも正確で、実に的を得ていて、私はだから何も言えなかった。好きに描いていいのよ、と言いながら、ここは違うでしょとすかさず指摘してくる母に、私はしょっちゅう閉口した。 でも、こうして彼の仕事を見ていると、母の仕事がいかなるものだったかが伝わってくる。私は彼の画を仕事を一枚一枚辿りながら、多分そこに母の影を見ていた。この展覧会の図録は母の分も買って帰ろう、そう決める。
立ち寄った店で、「ケルトの木の知恵」という本を見つける。ぱらぱらと捲り、買おうと即決する。全頁カラーの本だ。読んでいると懐かしい風が心に吹いてくる。これは散歩しながら読むのにちょうどよい、そんな気がする。私がまだ持っていない妖精図鑑もあり、これも本当は購入したかったが、さすがに本を十冊持って歩くのは躊躇われ、また今度にする。 美術館を出ると、一面芝が広がっており。点在する彫刻。その間をゆったりと行き交う人々。日曜日だからだろう、幼い子供を連れた家族連れの姿も見られる。これほど広い空間があれば、ピクニックもどれほど楽しいだろう。私はその姿を、木立のこちら側からじっと見つめる。娘がもし隣にいたら。私たちは間違いなくこの野っ原を走り回って遊んでいたに違いない。今娘が隣にいないことが、至極残念でならない。彼女が休みになったら、またあの公園にピクニックにでかけようか。寒いかもしれないが、それでも、弁当を持って水筒を持って出掛ければ楽しいに違いない。そして私はカメラを持って。 そういえば今年私は父母に、一冊の作品集をプレゼントした。今年撮った娘の写真たちを集めた一冊だ。そしたら一言、足が写ってる写真なんて見たくない、と言われた。私はそれを娘から電話で聞き、大笑いしてしまった。なんと父母らしい言葉だろう。あぁまだ父母の心は健在だ、それが分かって。こんちくしょうと思うと同時に、嬉しかった。そういう憎まれ口を、いくらでも叩いてほしい。私が言い返したくなるような言葉を、死ぬまで吐き続けて欲しい。それがあなたたちだから。それが私とあなたたちの関係だから。
体調が少し思わしくないのかもしれない。帰りの電車の中、何度も吐き気に襲われる。かといって、ここで吐くわけにもいかない。ぐっと我慢する。我慢しながら、あれやこれや思い出す。過食嘔吐を繰り返していた頃があったこと。嘔吐するその白い便器の中に母の顔がいつも浮かんでいたこと。私が食べ物を食べることを拒絶するきっかけを作った母の言葉、それが吐かれた瞬間の場面の映像。ありありと浮かぶ。 過食嘔吐は何故あんなにも虚しく哀しいものなのだろう。それはきっと、本来、おいしいおいしいと食べられるはずのものたちが、味も何も感じられないまま内臓に押し込まれ、そして形もまだ殆ど崩れぬまま、そのままに便器に吐き出されるからなんだろう。吐き出されたものを目の前にして、いつも呆然としたものだった。自分は一体何をやっているのだろうと、毎回毎回思った。思ったが、止められなかった。そういう時期があった。 車窓を流れる山並み、刈り取られた後の田畑の風景はやがて、幾つも立ち並ぶ建物に変わり。私にはその建物たちが、怒涛のようにこちらに押し寄せてくる人波に思えてくる。頭を振ってその錯覚をかなぐり捨てる。 私にとってヒトガタはまだ恐ろしい。ヒトガタに押し寄せられると、吐き気がする。眩暈がする。立ち竦む。でも同時に私はそのヒトガタである人間が、どうしようもなく好きだ。これでもかというほど。 そういう自分を今は、受け止めるだけ。
娘がココアを頭に乗せながらテレビを観ている。その横で私は二杯目のハーブティを飲んでいる。ママ、今日病院だよね。うん。じゃぁ今日は私が帰ってきたときいない? うん、いないかも。わかった。そろそろバスの時間だよ、みんな並んでる、ほら。あぁじゃぁママもそろそろ行かなくいちゃ。 玄関先にもココアを頭に乗せてやってくる娘。ママもココアに挨拶してよ。はいはい。私はココアを手に乗せ、ぷしゅっと潰すような真似をしてココアを両手で挟んでやる。ココアはそこから這い出そうと、手足を動かす。その小さな手の、片手は四本指。でも彼女は元気だ。丸く艶々した目を輝かせ、娘の掌へと戻ってゆく。 じゃぁね、じゃあまたね。そういって手を振り合う私たち。 バスに乗り電車に乗り。電車が川を渡るところで私は顔を上げる。あぁ何という景色なのだろう。今東の空に残り少ない雨雲が固まって溜まっており。その裂け目裂け目から、陽光が漏れ出ずる。灰色の雲はその輪郭を燃え上がらせ、太陽の存在を讃えているかのよう。私はその光景をじっと、ただじっと見つめる。一瞬も逃したくなくて、ただ、見つめる。 そして川は流れてゆく。とどまることなく流れ続ける。誰の思惑も寄せ付けず、淡々と、流れ続ける。
空高く舞う鳥の影。旋回して今、東の空に消えてゆく。 |
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