2009年12月16日(水) |
目を覚ますと午前四時半。いい頃合なのでがばっと起き上がる。途端に冷気が私の身体を包み込む。ぶるりと身体を大きく震わせてから思い切り窓を開ける。こんな時間に何処からか笑い声が響いてくる。通りを見れば、車も行き交わないこの時間、坂道を一生懸命二人乗りして上がってくる自転車。若い男の子と女の子が、もうちょっと、もうちょっとと、声を掛け合いながら坂を上っている。何処かで夜明かししたのだろうか。それにしたって自転車だ。寒いだろうに。そう思いながらも、でもきっと、あんなに楽しそうにしているのだもの、寒さも楽しいのうちだろう、と私も微笑む。ようやっと坂道を上り切った自転車は、信号を無視してそのまま今度は坂を下って見えなくなってゆく。早朝のほんの一コマ。 昨日久しぶりに水を遣ったイフェイオンとムスカリは、元気一杯に葉を伸ばしている。まるで鼻歌が聴こえてきそうな勢いだ。私はちょんちょんと、指先でイフェイオンの葉を突付く。さわさわわと揺れる葉たち。 薔薇のプランターも表面の土が乾いているのだけれども、水を遣るのはまだ躊躇われる。病葉が止まない今、そんなに水を遣るわけにもいかない。私はとりあえず朝の挨拶をして、一本一本の樹を見て回る。今のところ新しい病葉は見当たらない。挿し木の鉢にだけ少し水を遣る。あとはアメリカン・ブルーとラヴェンダーのプランターに。玄関に回ると、校庭はしんとそこに在り。夜が明けるのをじっと待っている。埋立地に立つ高層ビルの影が闇の中でも色濃く浮き立つ。ぽつりぽつり点った窓の明かり。あの窓の向こうでは今頃誰が何をしているのだろう。眠れずに一夜を過ごしたのだろうか。それとも私のように今こうやって外を眺めているのだろうか。 雲はどんよりと空に漂い。今日はもしかしたら一日こんな天気なのかもしれない。空を見上げていた目を、私はそのままプールへと落とす。街燈の僅かな光を受けて、それでもきらきらと輝く水面。微かにさざなみだって、でもそれは沈黙の中の声で。私はじっと水面を見つめる。冬のプール。いつも惹かれる。入りたくなる。とぽんと水の中、沈みたくなる。
三駅分を自転車で走り抜ける。裏道小道、脇道を行き放題。信号なんてそこには殆ど存在しない。だから私は左右をきょろきょろしながらペダルを漕ぐ。川沿いの道を選んで走る。もう不法投棄されている船などないと思っていたのに、そこには幾つかの船が漂っている。郵便受けをつけた小舟まである。誰かが今ここに住んでいるのだろうか。葉書にはどんな住所が書いてあるんだろう。郵便屋さんはどんなふうにしてあの郵便受けに葉書を届けるのだろう。 外国人も多く住むこの地帯。行き交う人もだから様々だ。でもみんな、この冬空の下、コートの前を掻き合わせ、足早に歩いてゆく。モノトーンの多くなるこの季節。空模様と一緒に街が少し重く、そして乾いている。 用事を済ませる前に一杯、私は珈琲を飲みに店に入る。凍え切った指先をちょっと休ませてやりたくて珈琲を手に取ったものの、あまりに痺れて温かさが遠い。でも、口の中広がるぬくみは、確かに私の身体をあたためてくれる。あっという間に冷えてゆく珈琲。ちょっと寂しい。 しばらくぶりにその場所を訪れると、変わらぬ笑みで迎えてくれる人。いつもと違う声音なので訊ねてみると、喘息なのだという。子供も喘息持ちで、最近ちょっと発作が起きてという話になる。子供がぜろぜろやっていると、もう心配で心配で。自分のことになるとどうでもいいというか放っておくというか、医者に行こうなんていう気はさらさらおきないんですけどね。彼女が言う。そうそう、この前ようやく新型インフルエンザの予防接種を受けることができたんですよ。もう何軒の医者に電話をかけてもだめで。あれってほんとタイミングですね、もうだめかぁと思っていたら、突然いいですよって、しかもかかりつけの医者が言ってくれて、安心でした。あぁ、うちもいい加減そろそろ受けないといけないのかしら。でも娘さん、半袖族でしたよね。今もそうなんですよねぇ、時々上着着てるんですけど。そんなに元気なら、わざわざ受けなくてもいいような気がしますけどねぇ。どうなんでしょう。副作用とか考えちゃいますよね。彼女との話はほとんど子供の話で進んでゆく。 いつ私は寝入ってしまったのだろう。彼女に、前髪切りますよぉと声を掛けられて気づいた。また寝てしまった、ごめんなさい、と謝って背中を伸ばす。でもやっぱり頭の中はまだ眠っており。気づいたときには、いつもよりさらに短い前髪になっていた。あちゃ、と心の中声をあげたが、もう遅い。笑って誤魔化す。まぁいずれ伸びるのだろうから。そう思うことにする。 それにしても鞄重いですねぇ。荷物を手渡そうとしてくれた彼女がしみじみ言う。あぁ、本が今日はいつもより多く入っているから。私は笑って返事をする。そう、私の鞄はいつも重い。自分でも、肩が曲がるんじゃないかと思う。特に今は、大きな本が二冊入っているから、余計に重い。 それじゃぁまた。彼女が見送ってくれる。私は手入れしたての髪をなびかせながら、また自転車を漕いでゆく。
昨日のうちに買っておいたプルーンを、俎板の上で細かく刻む。そして小鍋へ。とろ火でくつくつ煮る。その間私はハーブティをおかわりし、煙草を吸い、洗濯物を畳む。くつくつ、くつくつ。煮詰まってきたところで味を確かめる。あぁ、母に朝尋ねたとおり、プルーンはお砂糖など一切入れなくても十分甘いんだなと実感する。煮れば煮るほど甘くなっていく気がする。 十分煮詰まったところで火を止める。私はまだ湯気ののぼる小鍋をじっと見つめる。そうやってしばらく待っている。少し冷めたところでレモンを一個、絞り入れる。再び味見。あぁこれならヨーグルトにちょうどいい。初めての、プルーンジャムのできあがり。
娘の勉強している横で、私もノートを開く。ママ、今日はどんな勉強するの? 先週の復習するの。今何やってるの? うーん、実践授業。どんなことするの? それぞれ役目を実際に演じるんだよ。ふぅん。話しながら彼女は、漢字の練習をしている。私も話しながら、ノートの清書を続けている。 ねぇ今日は夕飯何? あ、まだ考えてない。ふぅん、でも私、もうじき勉強終わるよ? え、早くない? だって今得意なところだもん、早いよ。あとどのくらい? あと三十分もあれば終わっちゃうよ。 私は大慌てで台所に立つ。さて、何にしよう。豚肉の残りがあったはず。今日買ってきたのは椎茸と下仁田ネギとあと何だっけ。あぁ大根だ。じゃぁそれらを使って肉野菜炒めとスープを作ってしまおう。私は時間を計りながら音を立てて野菜を切り始める。料理というのは不思議だ。やり始めると、気持ちが集中してすぅっと周りの音が静かになる。余計なものは聴こえなくなって、でも、とんとんという包丁の音やくつくつという鍋の音が軽やかに耳に響いてくる。 終わった! 娘の大きな声が部屋に響く。ぎりぎりセーフ。ご飯もできた! 私は返事をする。
何処もかしこも街はクリスマス色。何となく胸が詰まる。特に、テレビで家族揃った映像などを見ると、娘が気になる。娘はもちろん何も言わない。父親のことなど尋ねもしない。けれど。私は気にしている。ほんの少しだけれど、気にしている。そして、彼女の背中を叩きたくなる。ママがその分頑張るから、いい?
朝の仕事がなかなか終わらず、結局いつもより遅い時間になってしまう。ママ、ねぇママ。娘に呼ばれて振り返ると、心細そうな顔をした娘がココアを手に乗せて立っている。どうしたの? ココアが全然餌食べてないの。どれ、見せてご覧。ひまわりの種は? 食べてない。それにほら、これ、見せても全然食べようとしないんだよ。娘は指先に挟んだひまわりの種一つを、私の掌に乗せる。ココアは確かに食べようとしない。匂いをちょっと嗅いだだけでそっぽを向く。どうしたんだろうねぇ、おなかすいてないのかなぁ。でも昨日の夜あげたご飯も殆ど食べてない。うーん。ちょっと静かにさせておいてあげようか。でも。調子が悪い時は誰にでもあるよ。…うん。 もし今ココアがいなくなったら。私は考える。娘はどんなに悲しむだろう。でも。生命あるもの、いつか必ず死がやってくる。それは私にもだよ。心の中、娘の背中を見つめながら私は呟く。いつか別れがやって来る。誰にでも。そこには早すぎる死もあるかもしれない。 じゃぁね、じゃぁまた夜にね! 私たちは駆け足で玄関を出、手を振り合って別れる。しばしの別れ。私はやってきたバスに飛び乗る。 空はやっぱりまだ曇天。誰もがコートの襟を立てて足早に行過ぎる。私はその間を縫って歩く。辺りを埋め尽くすクリスマス色が、少し目に、痛い。 |
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