見つめる日々

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2009年12月17日(木) 
久しぶりに肩凝りも頭痛もなく目が覚める。すっきりとした意識の中、窓を開ければ一気に冷気が部屋に滑り込んでくる。眠っている間にようやくぬくんだ身体が、大きくぶるりと震える。それでも、この最初の冷気を浴びると、あぁ朝なのだという気がしてくるからやめられない。
今街景の中、点っている明かりは五つ。煌々と闇の中輝いている。まるで何かの目印のよう。私はつられて部屋の明かりを点す。そして今朝もまた、ハーブティを入れる。昨日店ですでにブレンドしてあるハーブティを買ったら全滅だった。とても私には飲める代物ではなく。だから今朝もやはり、自分でブレンドしたレモングラスとペパーミントのハーブティを選ぶ。すぅっと爽やかな香りが立ちのぼり。私の鼻をくすぐる。
夜はぬるま湯で丹念に、朝は水でばしゃばしゃと勢いよく顔を洗う習慣。今朝の水もこれまたいい具合に冷たくて、私の顔は一気に引き締まる。それが心地よい。朝鏡を見て一番に自分の顔を見たその印象は、下手をすると自分の一日を左右する。だからちょっと恐々と、同時に興味津々に鏡を覗く。寝不足のわりにはそれなりの顔色だ。私は嬉しくなる。そして勢いよく化粧水を叩き込む。
あっという間に空はぬるんできており。仄かに仄かにぬるんできており。私はその明かりを頼りに再びベランダに出、薔薇の樹を凝視する。四本の薔薇の樹にそれぞれ病葉を見つける。私は摘む。摘んで摘んで摘んで、落とさぬようビニール袋に棄てる。白い粉を土に落としたりすると、それが原因でまた病気が広がってしまう。だから握った拳はビニール袋の中で開く。そして葉を落とす。
ホワイトクリスマスの蕾はすっかり膨らんで、もう、ぷっくらという言葉がお似合いなほどになっている。ベビーロマンティカの蕾も一回り小さいながら、ぷくぷくと太ってきている。いつ咲くだろう、いつ咲くだろう。胸がどきどきする。どんな花が咲いてくれるだろう。
街路樹の葉は、僅かに木に残った者たちもすっかり黄色く乾いてきており。風が吹いたらいつ散り落ちてもおかしくはない。その街路樹の脇を、自転車に跨った老人が走ってゆく。老人が被った帽子の雪洞が、時折ぷるぷると震えながら、私の目の中を過ぎてゆく。

朝の一人の時間を過ごした後、K駅まで。友人がすでに待っていた。今日は一月末に催す二人展のDMを店に届けに行く。店が開くまで二時間ほど。私たちは駅前の喫茶店で時間を潰す。その間、私の視界を一体何羽の鳩が横切っただろう。この町にもずいぶん鳩が増えてきた。私は昔外国のとある街に滞在していた折、鳩に襲われたことがある。襲われたというとちょっと大袈裟かもしれないが、私が今まさに食べようとしているサンドウィッチめがけて鳩が空から突進してきたのだ。あまりのその勢いに私はサンドウィッチを放り出し逃げ出した。もちろん鳩は、地べたに落ちたサンドウィッチを勢いよく頬張り。とことん喰らい、そうして再び何処かへ飛んでいった。私はその様子をただじっと、物陰に隠れて見つめていた。あれ以来、鳩が怖い。
幼い幼い少年が、左手に握ったミニカーを走らせようといきなりしゃがみこむ。でもそこは車道でもあり。母親らしき女性がゆったりとした動作で彼に近づき、手を差し出す。彼はようやくそれに気づいて手を握り返す。とことこと歩き出した二人の後から、車がさぁっと走り過ぎる。
私たちが並んで座る目の前はガラス張りで。だから街の様子がありありと分かる。開店間際の店先、暖簾や看板を出す店員。マフラーで首をぐるぐる巻きにして、それでも首を竦めて歩くブーツを履いた若い女性。ゆっくりゆっくりと杖をつきながら歩くご主人に寄り添うように、ゆっくりゆっくりと共に歩く老婦人。昼間のひとときは、そうしてそれぞれの光景を繰り広げながら、重たげな曇天の下、やがては一枚の布に織り成されてゆく。

DMを届けた後、私たちはインドカレーを食べてみる。思った以上にそれは辛くて、自分が必要としている以上にナンを必要とするほどに辛くて。私たちは汗をかきながらそれを食べる。ようやく辛すぎるカレーを食べ終えた時にはおなかははちきれそうなほど膨らんでおり。そこで食の話になる。
彼女は起きた時からさぁ朝は何を食べよう、昼は何を食べよう、夜は何を食べよう、と、考えるという。おなかは定期的に空いて、だから食べることは必須なのだという。私はそれが自然だと思いながら自分を省み、自分がいかに食に対して執着がないのかを改めて実感する。食べたいと思うのはたとえばヨーグルトだったり、小豆だったり、そういったものは時折あるが、自分の為に、何を食べようかと思うということが殆どない。お茶に関しては、四六時中何かしらを口にしているのだから、執着があるのだろう。しかし、その飲むという行為の一方、食べるという行為に関しては、殆どうっちゃっていると言っても過言ではない。もし娘がいなかったら、私の食生活は本当にいい加減なものになっているだろう。自分が食べたいと思わなければ、どうしても腹が減って何かを必要としなければ、何処までも食べないで過ごしているかもしれない。そんな自分に気づき、ちょっと苦笑する。私のおなかは、もしかしたら無類のお茶好きなのかもしれない、なんて。

娘からメールが入っている。開くと、こちらがどきっとすることが書いてある。「ねぇママ、今日、サンタから二通目の手紙が来てたよ。でも全然違うんだよね、一通目と。二通目はサンタの洋服もトナカイの洋服も全部ピンクで、封筒もピンクなの。きらきら飾りがついてて。それで、今日は星がたくさん見えるはずだから、空を見上げてご覧って書いてある。地球は今病気で大変なんだとかも書いてある。なんかおかしいよね。サンタって二人いるわけ?」。私は返答に窮する。さて、これをどう切り抜けよう。実は、最初の一通目は友人が娘の為に出してくれた手紙で、二通目は私が注文したサンタからの手紙というエアメールで。でもそれを正直に言うわけにはいかない。さて、困った。
「この前サンタ会議ってテレビでやっていたでしょう? きっと何人かいるサンタの中から二人が手紙をそれぞれにくれたんじゃないのかな? よかったねぇ」。とりあえずそう返信する。あとはもう、彼女の解釈に任せよう。無責任なようだが、私はもうそうすることに決める。
そしてすかさず娘から再びメールが。「ねぇ、この前サンタに書いたプレゼントの手紙、出してくれたよね? サンタ、ちゃんとプレゼントくれるかな? ママは何くれるの?」。これにも私は窮する。サンタは我が家では私であり。私はサンタであり。でも娘はサンタと私を別々と思っており。だからプレゼントは二つもらえると信じている。さてこれを、どう切り抜けるか。今お財布は寂しい。二つ買っている余力は、ない。どうしたものか。クリスマスまで残りあと僅か。私は何かいい方法はないかと考える。

「内省の過程には解放がないのです。なぜならそれは、あるがままのものをそうでないものに変える過程であるからなのです。」「凝視はそれとは全く違ったものです。凝視は非難を伴わない観察なのです。凝視は理解をもたらします。なぜかと言いますと、凝視の中には避難や同一化というものがなく、無言の観察があるからです。」「ただ一つの事実を黙って観察しなければならないのです。そこには目的がなく、現実に起こっているすべてのものに対する凝視があるだけなのです。」「内省は自己改善であり、従って自己本位なのです。凝視は自己改善ではありません。その反対にそれは、他人と違った特徴や記憶や欲求の対象を持っている自我、すなわち「私」を終息させるものなのです。」「凝視の中には、非難も否定も容認も伴わない観察があるのです。」「凝視は外部のものを見ることから始まります。それは物や自然をじっと見つめ、それらと親しく接触することから始まるのです。初めに、私たちの周囲にある物の凝視があります。それは物や自然や人間に対して敏感であることであり、同時に自他の関係を意味しています。その次に観念に対する凝視があります。このような凝視――それは物、自然、人間、観念などに対して敏感であることです――は別々の過程から成り立っているのではなく、一つの統一した過程なのです。それはすべてのもの――あらゆる思考、感情、行為をそれが自分の心に生じるたびに絶え間なく観察することなのです。」「凝視は自我、すなわち「私」の働きを、人間や観念や物との関係の中で理解することなのです。」「観察の中には完全な共感が存在するのです。観察している人と観察されているものとの間に完璧な親交が生まれているのです。」(クリシュナムルティ「自我の終焉」より)

読んだ箇所がそのまますとんと私の中に落ちてくる。

娘と押しくらまんじゅうをしながら子供たちが集まるのを待つ。全員集まったところでいってらっしゃいと見送る。じゃぁね、またね。娘が列の間から手を振ってくる。私も手を振り返す。
自転車に乗って埋立地の方へ。走り出すのと同時に、さぁっと東の空から陽光が零れ出す。見れば、雲がもうもうと立ち上り。それは実に見事な燃え上がり方で。その裂け目裂け目から、陽光が零れ出しているのだ。私はじっとそれを見つめる。目の奥がじんじんと染みる。それでも私は目を逸らすことができずに見つめる。ただ見つめる。
やがて太陽は姿を現し。雲を頭一つ分抜け出て、辺りを煌々と照らし始める。私は勢いよくペダルを踏み込み、大通りを渡る。そして線路を抜け、銀杏並木へ。といってももう葉はすっかり散り落ち、下に溜まった落ち葉ももはやあの黄金色ではなく。乾いた淡黄色に変色し、かさかさと音を立てている。まっすぐに天に向かって伸びる枝ぶりに、私はしばし見惚れる。凛々、凛々、という音が、まるで聴こえてきそうな気がする。
モミジフウの脇を走りぬけ、海へ。濃灰紺色の海が、細かな波を立てながらそこに在る。まだ誰もいない。海沿いの公園。私は一本だけ、煙草を吸う。海を見つめながら。

今、魚が飛び上がり。きらり、陽光を受けて輝く。身体を翻し、再び海に戻ってゆく。


遠藤みちる HOMEMAIL

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